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石狩ファイル0011-01(2004年7月1日)

花川のおいたち

はなかわのおいたち


石狩市民の約8割が居住している花川地区は、南地区が民間の宅地開発業者により昭和40(1965)年9月から分譲が開始され、「新札幌団地」と呼ばれていました。北地区は北海道住宅供給公社が昭和48(1973)年3月から分譲を開始、「花畔団地」と呼ばれていました。特に北地区は分譲条件により短期間に家が建てられ、街並みが一気にできあがりました。昭和51(1976)年には、両方の住宅団地を合わせ「花川」と命名されました。
それまでの石狩市の人口は、9,000人ほどの停滞状態が続き、農業にたずさわる人たちが主体でした。この両団地の開発によって人口が急増し、石狩湾新港開発とともに、のちの市制施行の大きな要因となっているのです。

この地区の土地利用の歴史をみると、明治26(1893)年に道庁が樽川・花畔の原野を殖民区画し、移民開拓者を入植させました。明治30(1897)年「北海道国有未開地処分法」の発布にともない大規模に土地が払い下げられ、原始林におおわれた原野の開墾は急速に進みました。
明治32(1899)年、町村金弥は現在の花川南3条2丁目に町村農場を開設しました。長男の敬貴は10年間アメリカで牧場経営を学び、大正6(1917)年、樽川に牧場を開きました。(写真1)
樽川・花畔一帯は大規模農場が点在し、北海道の一大酪農先進地に生まれ変わりました。(昭和3年、町村牧場は江別に移転、現在も牧場を経営中です。)

昭和になってからの土地利用は水田でした。海浜砂地造田は水を貯える上で難問でしたが、農家は試行錯誤の末、砂地の稲作技術を身につけました。太平洋戦争後の食料難時代、特に主食の米が全国的に不足していました。昭和23(1948)年、この地域で全道初の大型水田化(写真2)による米の増産を行い、良質米生産地の名声を全道に広めました。
しかし、昭和40年代に入り日本が高度経済成長期を迎え、札幌市の人口集中は目ざましいものでした。時代の要請にこたえてきたこの水田地帯も、札幌圏内の閑静な一戸建て低層住宅地(写真3)へと役割を変え、現在に至っているのです。

(神林 勲)


参考文献


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