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石狩ファイル0014-01(2004年7月1日)

石狩の開拓の歴史

いしかりのかいたくのれきし


石狩の各地には、それぞれ、最初に次のような人たちが入植しました。

■生振村
明治4(1871)年5月、宮城県宮城郡から29戸124名(引率者;米沢藩士玉木琢蔵)

■花畔村
明治4年5月、盛岡県岩手郡から39戸129名(引率者;佐藤熊太郎)

■南線地区
明治12(1879)年、四国より14名

■樽川村
明治18(1885)年、山口県から2戸(引率者;河本荘七)

■高岡地区
明治18年4月、山口県那珂郡中津村から20戸106名

このうち、生振、花畔村の移民は、開拓使募集の募移民で、旅費、家屋、農具、3年間の食料、開墾料(1反に付2両)の補助のある開拓者でしたが、それでも開拓は軌道にのらず、離農するものも多かったのです。
その後、明治15(1882)年の開拓使廃止、同19(1886)年の北海道庁設置により、開拓は新たな時代を迎え、開拓移民の直接の保護は廃止されて、開墾した土地は、1,000坪1円で払い下げる制度となりました(明治30年に払い下げは無償となる)。また、殖民区画が設定され、石狩では明治26(1893)年に軽川(樽川)原野、花畔原野、生振原野が区画されました。こうして、各地への入植者は増えていきましたが、石狩の平野部は砂地か泥炭地でもともと地力が低く、また、石狩川の氾濫や冷害、虫害などの災害もあり、開拓は困難をきわめたのです。
そういう困難の中、開拓民は地区内で厳しい規約を結び、開拓を進めていきました。そうして、明治32(1899)年には、花畔村に362戸、樽川村に140戸の集落が作られていました。

(石井滋朗)


参考文献


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