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石狩ファイル0040-02(2012年1月25日)

石狩の除虫菊栽培

いしかりのじょちゅうぎくさいばい


除虫菊の花
除虫菊はキク科の多年草でムシヨケギクとも呼ばれ、開花した花を摘み取り乾燥して、蚊取り線香、蚤取粉(のみとりこ)、農薬などの原料とします。

石狩の除虫菊栽培は、明治25(1892)年(明治29年ともいわれる)に、花畔(ばんなぐろ)村の金子清一郎(かねこせいいちろう)が、和歌山の上山英一郎(うえやまえいいちろう、金鳥の創業者)から種子を取り寄せて、50株を道内他産地に先駆けて作付けしたのが始まりです。

金子は製粉した蚤取粉も販売し、他の農家にも現金収入になる除虫菊をすすめたので、花畔だけでなく親船町などにも栽培が広がり、明治36(1903)年には全町の栽培面積が1町2反に達しました。除虫菊は、もともと乾燥した気候と排水の良い砂質の痩地(そうち)を好むため、石狩に適していたのです。大正6(1917)年には、二代目金子清一郎を組合長として「石狩町除虫菊栽培組合」が設立されました。

道内の他の地域でも除虫菊栽培熱は高まり、特に第一次世界大戦(1914〜1918年)後、ヨーロッパで生産が激減して除虫菊の相場が上昇したのにともない、北海道の除虫菊栽培は急激に増加し、大正14(1925)年には国内作付面積の69%を占める、全国一の産地となりました。その後、金子は昭和7(1932)年に、和寒(わっさむ)村や倶知安(くっちゃん)町の農家とともに北海道除虫菊製品工業組合を設立して、濃厚エキスを「ピレトシッキス」、農業用乳剤および家庭用スプレーを「ハルク」の名称で商品化し、道内外や海外へも販売しましたが、昭和14(1939)年に北聯(ホクレン)に買収されています。また、昭和17(1942)年には戦時体制の中、石狩町除虫菊栽培組合は石狩町産業組合に統合されました。

第二次大戦後は、アメリカからDDTやBHCなどの安価な化学農薬が輸入され、除虫菊の殺虫剤は市場での競争力をなくしていきました。昭和25(1950)年頃には花畔の一部で作付けされるだけとなり、昭和35(1960)年頃を最後にまったく作られなくなりました。

(石井滋朗)

石狩町の除虫菊生産量と販売額
年度大正6年大正9年大正13年大正15年昭和5年昭和9年昭和13年昭和15年
生産量(貫)9106621,3224,2022,9421,3811,4191,137
販売額(円)2,3116,3847,2735,1335,8057,0956,7507,187
(金子(1988)より)


参考文献


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