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石狩ファイル0047-01(2005年9月25日)

石狩川の外輪船

いしかりがわのがいりんせん


外輪船「上川丸」
外輪船とは、船体中央部の両側にある水車を回して航行する船のことです。石狩川では「神威(かむい)丸」「安心丸」「上川丸」「空知丸」の4隻が活躍しました。

明治17年(1884)年秋、石狩−樺戸(かばと、現:月形町)間に、石狩川で初めての外輪船、神威丸と安心丸が就航しました。この2隻は、樺戸集治監(しゅうちかん=監獄)に囚人と生活物資を運ぶ常備船として運航されました。

明治24(1891)年には、江別−樺戸間の航路が空知太(そらちぶと、現:砂川市)まで延長され、江別−漁太(いざりぶと、現:恵庭市)間の新航路も開かれ、神威丸、上川丸、空知丸の3隻が石狩川を航行しました。

石狩川の外輪船の主な船着場
外輪船の運営は数々の民間会社が担っていましたが、浅瀬や流木などの障害物による座礁や、渇水・洪水による欠航、利用者の減少などで、その経営状態は厳しいものでした。そのため明治35(1902)年、石狩−江別間、江別−月形間、月形−札的内(さつてきない、現:浦臼町)間の3航路が、北海道庁により「命令航路」に指定されました。命令航路とは、国が補助金を交付するかわりに、運航者、運航区間や寄港地、運航回数、使用船舶を指定する航路のことです。上川丸と空知丸の2隻が運航されました。当時の乗客運賃は、石狩−江別間と江別・月形間で上等=75銭、並等=50銭、月形−札的内間で上等=45銭、並等30銭でした(『殖民公報』明治36年)。

しかし明治43(1910)年、利用者の減少により月形−札的内間が廃止され、その後も陸路(道路や鉄道)の整備に伴って、水運は衰退していきました。そして昭和10(1935)年、札沼(さっしょう)線(現:JR学園都市線)の開通により、全航路が廃止となりました。

(工藤友紀)


参考文献


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