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石狩ファイル0053-01(2006年3月31日)

厚田の歴史

あつたのれきし


石狩市厚田区
厚田に人が住み始めたのは、今からおよそ7000年ぐらい前からだと考えられています。人々は川の近くに小さな集落をつくり、おもに狩りなどで生活をしていました。そのころの住居跡や生活に使った石器や土器、矢じりなどが、厚田の多くの遺跡(御所の沢、古潭(こたん)遺跡など)から見つかっています。

江戸時代になり、元禄13(1700)年に幕府に献上された「元禄松前御国絵図」には、すでに「あつた」や「おしょろこつ」(現在の押琴(おしこと))などの地名があり、約300年前から和人が往来し、1万人を越える人々がニシンやサケ漁の季節労働に従事していました。特に押琴はその地形から天然の良港として多くの弁財船が来航し、運上屋も建ち、にぎわいを見せていました。今、古潭には「厚田村発祥の地」と「弁財船投錨地」の2つの石碑が並んで建っています。

明治2(1869)年、厚田に戸長役場が置かれ、この年が開村の年として位置づけられています。もともと農業と漁業が主産業の厚田は、明治時代から昭和初期までニシン漁で栄えました。出稼ぎの漁師でにぎわった明治14(1881)年の人口は1万2000人を超えました。しかし、その後ニシン漁は昭和24年(1949)年を最後に衰退し、それにより人も減り、村の過疎化は急速に進みました。

明治時代に入ると、道内各地には本州から続々と集団移民が始まり、厚田にも多くの人々が入植しました。明治4(1872)年以降、山形県14戸をはじめとし山口県127戸、石川県42戸、兵庫県30戸のほか、南部団体(岩手、青森県)、新潟県などから次々と入り、望来(もうらい)、聚富(しっぷ)、発足(はったり)、正利冠(まさりかっぷ)などで開墾に励みました。今でも村内には兵庫県団体、加賀ノ沢、越後沢など開拓にちなんだ地名が残っています。これらの地域では、おもに米の栽培を中心に農業が営まれてきましたが、いまでは米のほかに、小麦、ビート、メロン、牛乳生産などが中心になり、その販売取扱高では漁業を上回る基幹産業へと発展しています。

明治40(1907)年、1級町村制施行により、厚田村と望来村を合わせて新たに厚田村が誕生しました。そして、平成17(2005)年、厚田村は浜益(はまます)村とともに石狩市と合併し、新たな時代へと歩み始めました。

(木戸口道彰)


参考文献


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