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石狩ファイル0058-01(2006年3月31日)

生振村愛知県団体移民

おやふるむらあいちけんみんだんたいいみん


愛知県団体入植地 愛知県から団体で生振に入植した人たちは、愛知県団体と呼ばれ、生振地区の開拓史に画期的な足跡を記しました。

明治24(1891)年の濃尾大地震の被害をうけた愛知県3郡(東春日井、西春日井、丹羽)の農民達は、北海道移住を決意して、明治26(1893)年、16ケ条の「愛知県団結移住者規約」を結びました。翌27年旧暦4月15日(新暦5月29日)、56戸320人が、西生振原野に入植しました(図参照 総面積277町歩、1戸あたり約5町歩、1町歩は10,000m2)。

しかし、樹木と熊笹の生い茂った原野の開拓は容易ではなく、初年度は、1戸平均5反歩(1反歩は1,000m2)ほどの作付けしか出来ませんでした。収穫は、ソバ、バレイショ、インゲンマメなど5〜10俵(1俵は60kg)で、越年も難しいありさまでした。日常の食べ物といえば、三度三度、従兄弟煮(いとこに)というソバ、イモ、豆のごった煮ばかりでした。

2年目は、出稼ぎに出る家も多く、余裕のある者が低利で融通して仲間を助けました。食料や農具なども札幌の商人から借り受けたのです。この年は各戸1町2〜3反歩の作付けをしましたが、夜盗虫(よとうむし:ヨトウガの幼虫で野菜類を食害する)の被害で、一層の困難を極めました。

3年目の明治29(1896)年に、ようやく充分な収穫があり、30年には初めて収穫の一部を販売して、出稼ぎもなくなりました。

この間、移住の年に村内3ケ所に祠(ほこら)を造って天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀(まつ)っていましたが、明治34(1901)年にこれらは合祀(ごうし)されて生振神社となりました。また、移住の翌年には、学校を建て、子供達の教育も行いました。これが後の生振小学校となります。

明治31(1898)年には大洪水があり、苦しめられましたが、明治33(1900)年、全ての家が、全地の開墾をなしとげたのです。その後は、洪水などもありましたが、肥沃な沖積土壌にも恵まれて順調に推移し、養鶏も行い、全道有数の優良部落となりました。

この愛知県団体の成功は、団結が固く常に相互扶助を貫いたことと、長江常三郎、佐藤安次郎などの良きリーダーがいた事によるものでした。

(石井滋朗)


参考文献


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