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石狩ファイル0069-01(2006年3月31日)

開拓者の生活

かいたくしゃのせいかつ


開拓者が生活した掘立小屋
(北海道開拓記念館ほか,2000)
石狩の開拓は、生振(おやふる)と花畔(ばんなぐろ)で明治4(1871)年に、樽川、高岡で明治18(1885)年に始まりましたが、開拓者の日常生活には大変な困難がありました。

■住まい
当初は、丸太を八方から組み合わせ、横木をわたしてヨシやササで編みつけた「おがみ小屋」とか「三角小屋」「編み笠小屋」と呼ばれたものでした。その後、2間×3間くらいの大きさの「掘立小屋」が建てられましたが、これも粗末なもので、屋根や壁はヨシやササで作り、床はヨシ、ササ、麦わらなどの上に筵(むしろ)を敷いたものでした。灯火はカンテラ(ブリキの箱形石油ランプ)や手製のあんどん(木枠に紙をはり中に油皿を入れたもの)が使われましたが、後にランプが普及しました。

■食べ物
米など食べられず、ソバ、ムギ、アワ、イナキビ、ジャガイモ、マメ、山菜など、なんでも食料としました。イモ、マメ、ソバのごった煮は「従兄弟煮(いとこに)」と呼ばれ、常食でした。たんぱく源として、出稼ぎの報酬のニシンを、身欠きやヌカ漬にして保存していました。

■ 身につけるもの
衣類は和服で、男は股引(ももひき)、女はモンペが普段着兼仕事着でしたが、予備のものなどなく、主婦は洗濯と繕いに追われる毎日でした。冬は綿入れの着物や「袖なし」「チャンチャンコ」を重ね着して寒さを防ぎ、つまご(足元に覆いをつけたわらじ)を履き、手っかえしと呼ばれた手袋をしていました。また、テント地は外套に、鮭の皮は履物(ケリ)に、柳の皮はぞうりにと、身近かな様々な物が利用されました。

開拓者の日常生活はこのように苦労の連続でしたが、数年後に貸付地の開拓が完了して自分の土地になると、土台付きの家が建てられ、生活も少しずつ安定していきました。しかし、主食のご飯は、大正時代になっても、米より麦の量が多い、黒っぽい麦ご飯でした。

(石井滋朗)


参考文献


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