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石狩ファイル0072-01(2006年9月30日)

厚田の著名人(2)吉葉山潤之輔

あつたのちょめいじん2よしばやまじゅんのすけ


吉葉山潤之輔(1920〜1977)

第43代横綱。本名は池田潤之輔。厚田村安瀬(やそすけ)の裕福なニシン漁の網元の三男に生まれました。幼いころから徒競走、走り高跳び、砲丸投げ、相撲とスポーツ万能だった潤之輔は、全道青年相撲大会などに出場し、好成績を収める活躍を見せました。しかし昭和に入りニシンの不漁が続いたために家業の経営が傾き、潤之輔は16歳で十勝の製糖会社に勤めます。

昭和13(1938)年、潤之輔は技術を身につけるため新たな仕事を求め上京。偶然にも、その体格が認められ大相撲の高島部屋に入門することになります。帯広で勤めていた北海道製糖から四股名を「北糖山」とした潤之輔は、順調に昇進します。昭和17年、入門4年目の夏場所で幕下優勝。その後、戦争に召集されたが無事復員し、昭和22年の夏場所で復帰。4年後に大関、そして昭和29(1954)年初場所で全勝優勝、ついに第43代の横綱に昇進します。180cm、150kgの恵まれた身体と、相撲人形のように美しい吉葉山は「美男子横綱」とはやされました。

しかし横綱になった吉葉山には、怪我との戦い、という新たな試練が待ち受けています。怪我などによる休場が増え、ファンの期待に応えられず、いつしか「不遇の横綱」と呼ばれ、ついに昭和33(1958)年通算37場所、304勝の成績を残し、初場所を最後に土俵を去ります。横綱在位17場所、その時吉葉山は37歳になっていました。引退後は宮城野を襲名、親方として多くの力士を育て上げ、日本相撲協会の理事や初代の審判部長として活躍、昭和52(1977)年11月、57歳の生涯を終えます。それは、道産子横綱第一号となった第41代横綱千代の山が世を去って、わずか1ケ月後のことでした。

高島部屋に入門して間もなく、悪性の虫垂炎を患います。一命を取り留めてくれた吉葉庄作医師への恩義として、四股名を「吉葉山」としたエピソードが残っています。戦後の暗い時代、厚田の人々はもとより道民に希望と勇気を与えてくれた郷土のヒーローでした。

(木戸口道彰)


参考文献


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