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石狩ファイル0085-01(2008年3月25日)

厚田・浜益の鰊漁

あつたはまますのにしんりょう


■はじまり
この地域でのニシン漁の始まりは、松前藩により厚田、マシケ場所が設けられた宝永3(1706)年と云われています。当初は、たも網でニシンをすくい取るような原始的な漁法でした。

■場所・時代
その後発達したニシン漁法には、刺網漁と建網(大網)漁がありますが、松前藩は、独占と乱獲防止のため、建網漁を禁止していました。(禁止は厚田まで、浜益は制限されず)しかし、禁を犯して建網が使われることも多く、安政2(1855)年には、刺網漁民が建網を切断して廻る「網切騒動」も起こっています。この後、安政4(1857)年に、建網漁は許可されました。

■明治時代
明治2(1869)年、場所請負制度が廃止され、翌一年限りの開拓使支配の後、明治4(1871)年から、ニシン漁業は個人経営体制となりました。その後は、経営者数、持網数の増加と漁法の改良、漁場の増設により、ピークの明治38(1905)年頃まで、漁獲量は増えていきました(表1)。厚田では、ニシン建網14ケ統(※)をもつ、大網元の佐藤松太郎が、漁業家長者番付の横綱におされるほどの勢力でした。浜益では、明治32(1899)年に白鳥家により建てられた鰊番屋が、改修復原されて(1971年)、はまます郷土資料館となっています。

■大正・昭和時代
大正から昭和にかけては、漁獲量が大きく変動し(表1)、加えて恐慌による魚価の低下もあって、ニシン漁業の経営は大変苦しくなりました。その打開策として、昭和7(1932)年、後志(しりべし)、石狩、留萌(るもい)、宗谷管内の建網漁業者が合同して、合同漁業株式会社が設立されました。しかし、経営は好転せず、設立3年目には賃貸経営となり、昭和11年の大凶漁以降は、歩合制(経営者7分、漁夫3分)になって、昭和23(1948)年、合同会社は解散となりました。

■ニシン漁の終わり
昭和30(1955)年、突然、ニシンが獲れなくなり(浜益では一尾も獲れませんでした)、江戸時代から続いたニシン漁業は、全道的に終わってしまいました。(表1)

■近年のニシン漁
やや資源回復が見られる近年の厚田・浜益の合計漁獲高は次のとおりです。
平成15年:152トン 平成16年:641トン 平成17年:178トン

(石井滋朗)

※統:定置網の単位。1ヶ統は幅約54mに建網1基を設置し、20〜30人の漁夫を雇った

表1 石狩支庁のニシン漁獲量(単位:千トン)
明治20明治24明治25明治30明治31明治38明治39明治43大正5大正9大正10大正14
35471961307125304056329
大正15昭和5昭和6昭和10昭和11昭和15昭和16昭和20昭和21昭和25昭和29昭和30
3350192601222231423160
(「ニシン文化史」より)


参考文献


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