石狩ファイル0087-01(2008年3月25日)
石狩築港平面図 (明治31年 広井勇) |
明治31(1898)年、広井は石狩築港についての計画案を発表します。それは石狩川をそのまま流下させ、河口の屈曲部付近の海浜に港湾を建設し、これと運河により石狩川を結び船舶の通行を可能にするという計画でした。運河とともに石狩湾に長さ約1,700mの南北2本の防波堤を建設し、港湾面積は約100ha、総工費は340万円という広大な計画でした。しかし当時の北海道庁の土木事業費はわずか48万円、そのうえ小樽港の建設が始まったばかり、時期的にも石狩港を建設する余力はなく、結果的に広井案は幻の計画に終わり、実現することはありませんでした。
■岡崎文吉の計画
明治31(1898)年9月、石狩川は大氾濫し流域に甚大な被害をもたらしました。この大洪水により政府は石狩川治水の重要性を認め、翌年から国費を投じて治水調査を始めます。この調査を指導したのが「石狩川治水の祖」と呼ばれた岡崎文吉でした。彼は明治42(1909)年、調査結果を「石狩川治水計画調査報文」としてまとめます。
岡崎の作成した治水計画は、翌年から始まった第1期北海道拓殖計画のなかで基幹事業として採用されます。調査報告の内容は、石狩川の防災に関する治水施設の記述が大部分でしたが、同時に水利の便を図るため、石狩川河口改修計画についても触れられていることが注目されます。彼の港湾建設計画は、河口付近から石狩湾に向けて2本の防波堤を建設し港を築き、河口にはこう門と運河を設け、船舶が通過するとき以外はこう門を閉鎖し土砂の港湾内に流れ込むのを防止する、というものでした。この計画は、札幌農学校工学科で師であった広井勇博士の構想を踏まえたものでした。
(木戸口道彰)
参考文献