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石狩ファイル0091-01(2008年3月25日)

石狩市の地名を訪ねて(1)浜益のアイヌ語地名

いしかりしのちめいをたずねて1はまますのあいぬごちめい


石狩市浜益区
地名とは何でしょうか。山口恵一郎は「土地が表現する、あるいは土地の上に表現された、いろいろな様子に名づけられた名称である」と定義しています。北海道に住む私たちのまわりにある地名の多くはアイヌ語系のもので、それは北海道のきわだった地方色です。北海道のアイヌ語地名は「土地の上に表現された」文化財として独特な趣を漂わせています。なお、アイヌ語地名のいわれには諸説があり、ここでは下記の文献にある一つの例を記述してあります。

浜益(はまます)
古くはヘロク・カル・シ・イ(ニシンを・とる・いつもする・処)と呼ばれ、ニシンがたくさんとれる所マシケ(多過ぎる)と言った。嘉永3(1626)年、マシケ場所が設けられたが後に増毛(ましけ)に移り、この地を「浜マシケ」とし、明治2(1869)年から「ハママス(浜益)」となったという。平成17(2005)年に石狩市と合併するまでは、浜益村の役場が置かれ、村の中心集落であった。浜益区の人口は2,015人、993戸。

濃昼(ごきびる)
アイヌ語でポキン・ピリ(下の・蔭)。この付近の海岸は急峻な崖続きであるが、濃昼川河口の岩岬の蔭にわずかな平地があり、ここに鰊番屋などの漁業集落がつくられた。濃昼川を挟み浜益と厚田の両区にまたがる地名。人口49人、24戸。

送毛(おくりげ)
ウクルキ(湿地に生えるサジオモダカ)の意。ハママシケ場所請負人・伊達林右衛門によって寛政8(1796)年、番屋が作られた。「送毛山道」は安政4〜5(1857〜1858)年に開削された。人口27人、12戸。

毘砂別(びしゃべつ)
ピ・サン・ペッ(石が・流れ出る・川)の意。毘砂別川河口の漁業集落の名。ユーカラ伝説によると、英雄ポイヤウンペが育ったところ。人口125人、62戸。

群別(くんべつ)
古くはポン・クンベツと呼ばれていたが、クンネ・ペッ(小さい黒い石のある川)の意。かつてはニシン漁で栄えた集落。明治33(1900)年頃のニシンの漁獲量1万3000石、人口は2,249人でにぎわった。人口224人、117戸。

(ぽろ)
幌川はポロ・クンベツ(大きい・クンベツ川)で、後に「幌」と呼ぶようになった。ポロは「親の意」もある。幌川の周辺には、石狩市ではここだけに残る果樹園が広がっている。道内には「幌内」の地名は13ケ所ある。人口162人、143戸。

(木戸口道彰)

※人口と戸数は平成18年12月現在


参考文献


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