石狩ファイル0101-01(2009年9月15日)
北前船 |
■弁財船とは
室町時代後期に瀬戸内海地方で生れた、荷物の積載のため腹部が広がった形の船の呼び名です。
■北前船の誕生
従来、北国の物資を京、大阪へ運ぶには、船で敦賀まで運び、敦賀から琵琶湖を経て大津へ、大津から京へというルートが使われていましたが、大変効率が悪かったのです。江戸時代の寛文12(1672)年に、河村瑞賢が東北から大阪への西廻り航路輸送を成功させたことにより、次第に西廻り航路が利用されるようになりました。
■大阪から松前まで
船は主に弁財船型の和船でしたが、明治以降は西洋船(帆船)も使われました。大阪から松前まで、おおよそ2週間〜3週間ほどの行程だったようです。
■北前船の大きさは?
平成17(2005)年、千石(150トン)積み北前船として復元建造された「みちのく丸」は、全長32m、全幅8.5mで、往時の大きさを類推させます。しかし、千石積みと称しても実際はそれ以下の北前船も多かったようです。
■積み荷はどんなものを?
大阪からの下り荷は、木綿や油、砂糖、酒、日用品などに、瀬戸内で塩、竹、紙、敦賀で鰊漁場用の縄や筵(むしろ)を積んで北へ向かいました。北陸で米や酒を積むことも多かったようです。上り荷は、鰊、〆粕、数の子、鮭、鱈、ナマコ、昆布などの海産物でした。
■北前船は石狩に来たか?
江戸時代の北前船の終点は松前三湊(松前、江差(えさし)、箱舘(はこだて))で、石狩に来ることはありませんでしたが、弁財船型の船は場所請負人も使用していたので、弁財船は石狩近辺にも出入りしていたのです。明治時代になると、場所請負制度が廃止されて、北前船も厚田などへ停泊するようになりますが、それも買積船の形態が廃れる昭和初期までの数十年のことでした。
(石井滋朗)
参考文献