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石狩ファイル0105-01(2009年9月15日)

井上伝蔵

いのうえでんぞう


井上伝蔵(1854〜1918)

大正7(1918)年6月23日、当時は野付牛(のつけうし)と呼ばれた北見で「伊藤房次郎(ふさじろう)」と名乗る人物が息をひきとりました。房次郎は死の直前に驚くべき事実を妻や子に明かします。実はこの人物、秩父事件の首謀者のひとり井上伝蔵であり、三十余年にわたり逃亡を続けた死刑囚でした。

井上伝蔵は、秩父事件から2年後に秩父下吉田村の妻子に別れをつげ、翌明治20(1887)年、石狩原野の開拓民募集を知りひそかに北海道に渡り、樽川(たるかわ)村で開墾に従事します。明治25(1892)年、39歳の伝蔵は伊藤房次郎の名で親船町に住み、この年江差(えさし)町の高浜忠七の長女で23歳年下のミキと結婚、2男3女をもうけ、代書業手伝いの仕事を始めます。「小間物・文具商伊藤房次郎」の看板を掲げ、鮭漁や石狩川水運の拠点として活気にわく明治の石狩で商売し、養子縁組の証人や八幡神社祭典委員など、町の世話役としても活躍します。店のきり盛りは妻ミキが、筆がたち法律に詳しい伝蔵は役場近くにあった代書業(成田録平)の手伝いに専念します。商売のかたわら「柳蛙(りゅうあ)」の俳号で俳句結社「尚古社」の有力な会員として多くの作品を残します。

明治44(1911)年、伝蔵一家は20年あまり住み慣れた石狩を離れ札幌に居を移し「石狩館」の名で下宿屋を営みます。転居の理由はさだかでないが、代書の仕事を辞めざるを得なくなったこと、鮭のまちとして栄えてきた石狩はこの頃になると漁獲量が激減、そのうえ度重なる大火で町は寂れて生計が困難になったからだといわれています。

札幌へ転居の翌年、野付牛で開拓奨励の話を聞き、59歳の伝蔵はここを終の棲家とすべく新天地におもむきます。しかし慣れない地での生活で待っていたのは病魔でした。札幌の病院で治療を続けるが、回復することもなく野付牛の自宅で65歳の生涯を終えました。伝蔵の死を「釧路新聞」「東京毎夕新聞」「東京朝日新聞」などが“秩父事件巨魁(きょかい)の死”として報じました。

逃亡に明け暮れた半生でしたが、決して暗いじめじめした人生ではなく、よき友人や隣人に恵まれ明るくたくましく生きた生涯でした。しかし、伝蔵は最後まで刑場の露と消えた同志や秩父吉田に残した妻のことを片時も忘れることはなかったといわれます。

秩父事件とは・・・
明治17(1884)年11月、埼玉県秩父地方で勃発した農民武装蜂起。繭や生糸価格の暴落に困窮した農民と自由民権運動に触発された農民知識層が「困民党」を組織し、郡役所や警察、高利貸宅などを襲った事件。総勢1万ともいわれる農民の大反乱は明治政府を震撼させる。政府が東京や高崎から軍隊を派遣したことにより農民軍は10日ほどで壊滅した。処罰者4千人に及んだ事件のなかで、会計長として事件を指揮した井上伝蔵は死刑の判決を受けるが逃亡する。

(木戸口道彰)


参考文献


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