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石狩ファイル0114-01(2010年10月31日)

石狩と伝染病

いしかりとでんせんびょう


伝染病とは、伝染力が強い感染症のことで、毒性の強い天然痘(てんねんとう)、コレラ、ペストはその代表的なものです。石狩での伝染病に関する記録は、安永8(1779)年の天然痘大流行が最初です。このときは、石狩地方のアイヌが、約650人以上亡くなったと伝えられています。

文化14(1817)年にも天然痘が大流行し、鮭漁のために石狩に集められたアイヌ約2,000人のうち、約900人のアイヌが亡くなったと言われています。当時、天然痘に対しては、主に病人を隔離し、感染の拡大を防ぐ方法がとられていました。しかし、文化14年の際は、鮭漁のため集めたアイヌの中で感染者が出たにもかかわらず、場所請負人(うけおいにん)が漁を続け、そのため被害が拡大したと言われています。石狩川河口の鮭漁には、石狩川流域のアイヌが広く集められていたため、大量の死者を出したことは、流域のアイヌ社会に大きな打撃を与えました。

明治に入っても天然痘、コレラがたびたび流行しています。明治4(1871)年には、生振村で天然痘が発生し、生振のアイヌたちが一時的に避難しています。また、明治18(1885)年から翌年にかけて、石狩で鮭漁業をおこなっていた樺太(からふと)アイヌの間にコレラが流行し、約300人が亡くなりました。八幡(はちまん)墓地には、この時犠牲となった方々を含め明治政府により強制移住させられた樺太アイヌの人々を慰霊する「樺太アイヌの碑」が建立されています。

(工藤義衛)


参考文献


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