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石狩ファイル0150-01(2015年3月31日)

極東農場

きょくとうのうじょう


かつて樽川一帯に極東農場といわれる約735haに及ぶ大規模農場がありました。大正7(1918)年に極東煉乳株式会社によって運営されたことからその名がつきましたが、その始まりは、道内初のデパート五番舘(ごばんかん)の前身である札幌興農園の創始者、小川二郎(札幌農学校11期生)が明治41(1908)年に牧草栽培を目的として開設した農場でした。

更にさかのぼると、ここは町村農場の創業者である町村金弥(札幌農学校2期生)が明治30(1897)年に国有地未開地処分法公布の際に仲間数人と共同で購入した土地でした。後に町村が仲間から全てを買い取りましたが、樽川の一部と花畔(ばんなぐろ)南線一帯のこの土地は、作物の生育には不向きな泥炭地でした。

小川は町村からこの土地を借り受け、アメリカから輸入した種子と農機具を用いてアメリカ式大規模農業を展開、牧草栽培に成功し、北海道における機械化農法の促進に大きく貢献しました。 札幌興農園から経営を譲り受けた極東煉乳は、軽川(手稲)地区に本社と第一農場、樽川西4線に第二農場、樽川西7線に第三農場を開設しました。

極東農場は創立当初ホルスタイン種の繁殖で有名でした。大正9(1920)年、アメリカから種牛12頭を取り寄せ、一時500頭もの純血ホルスタイン種を飼育するほどになりました。

こうして生産した牛たちは、石狩管内はもとより、道内および本州、更には朝鮮、樺太、満州、中国にまで輸出されました。

昭和15(1940)年、極東煉乳株式会社はブルガリアヨーグルトでお馴染みの明治乳業株式会社(現:株式会社明治)へと社名を変え、極東農場の名も消えました。

(西本結美)

昭和7年10月の樽川村(「樽川百年史」より改変)


参考文献


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