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厚田の歴史

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年7月31日更新


厚田の歴史と文化

日本海を眺望できるまち、厚田。ここには、かつて鰊が大漁だった時代の息吹があります。今も昔も変わらないもの、それは北西の風「あい風」がはこんでくれる多くの恵みと住民たちの温もりです。では、この厚田の熱い歴史と文化をご紹介しましょう。

「あい風」って、知っていますか?

野山を色づかせ、海を藍色に染める北西の風は、厚田に四季折々にいろいろな幸を運んできてくれます。古くから人々の間で、この風のことを「あい風」と言い慣らされました。

「あつた」はいつから?

「あつた」の地名は、松前藩の「新御国絵図」(寛文元年、1661年)に載っています。また、元禄13年(1700年)に幕府に献上された「元禄松前御国絵図」にも「あつた」「おしょろこつ」(現在の押琴(おしこと))の地名がみえます。このことから、その地名が知られるようになったのは約330年ほど前からであることがわかります。

季節的出稼ぎ漁場だった「あつた」

松前藩は家臣に禄の代わりに漁場を与え、家臣は漁場経営を商人に代行(場所請負制)をさせていました。しかし、和人は永住したのではなく、ニシン、アキアジ漁の季節的出稼ぎ漁場としての地域であったと思われます。天保11年(1840年)以降は、増毛、天塩、宗谷方面にも和人の出稼ぎは許可されましたが、それまでは厚田場所が西蝦夷地の北限でした。

押琴(おしこと)の泊には弁財船も停泊

ニシンの北上とともに松前、江差方面の漁夫も北上し、松前武四郎の「西蝦夷日記」(嘉永3年、1850年) オショロコツ(押琴(おしこと))の項によれば、和人は1万人もいたとなっています。 押琴(おしこと)の泊は、弁財船(千石船)が30隻も停泊できる良港で運上屋も建てられ、古潭(こたん)、押琴(おしこと)一帯は大変なにぎわいを見せたといわれています。

弁財船の写真

明治には、次々に団体移住

明治になると各県から続々と集団移住が始まりました。明治2年(1869年)には運上屋制度が廃止されて開拓使扱いとなり、戸長役場が設置されました。明治4年(1871年)に仙台から160余名がシップに移住し、山形・庄内から45名15戸が望来(もうらい)に居を構えました。以降本州各県より、次々に団体移住があり、各集落が形成されました。それに伴い神社、寺院も建てられ、また明治13年(1880年)には古潭(こたん)教育所を併合した厚田教育所が設置されるなど村づくりが活発になってきました。

1902年、「厚田村」誕生

明治35年(1902年)、戸長制度が廃止されて、二級町村制が施行され、聚富(しゅっぷ)(しっぷ)、望来(もうらい)、嶺泊(みねとまり)(みねどまり)三村を合わせて望来(もうらい)村とし、 古潭(こたん)以北の七村を合わせて厚田村としました。さらに明治40年(1907年)に1級町村制が施行され、 厚田、望来(もうらい)を合わせて厚田村となりました。