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いしかり博物誌/第10回

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年7月31日更新


第10回 日本書紀と石狩川

 日本書紀に7世紀半ば、斎明天皇(注1)が阿倍比羅夫に命じ蝦夷(えみし)(注2)を征服するため、東北地方や北海道に大軍を送ったとあります。
これは斎明天皇紀に出てきます。
 それによると「遠征は658年から660年にかけて行われ、最大で1万人規模の軍隊を200隻の船にのせ、日本海まわりで進軍させました。
そして3回目の660年には北海道と考えられる渡島(わたりしま)にきて、渡島蝦夷千人と共同で大河のほとりで粛鎮(みしはせ)(注3)という民族と激しい戦いの末、勝利をおさめました。
そのあと阿倍比羅夫は「粛鎮の捕虜を連れて飛鳥に帰り、王宮の池のそばに霊山を造り、捕虜を恐れさせたのちもてなした」と書かれています。
 この記述は江戸時代から研究されていて、遠征が事実か、また実際どこまで軍勢が侵攻したかなど多くの学説があります。
 特に、渡島すなわち北海道まで軍勢が渡ったという点については、疑問視する声も多いのです。
端的に言えば、阿倍比羅夫が北海道にきて粛鎮と戦ったのが事実とすれば戦場となった大河のほとりは当然、石狩川、それも侵攻ルートからみて石狩川河口だと考えられますが残念ながら具体的な証拠に欠けるのです。
 ところが、今年2月、奈良県明日香村の酒船石(さかふねいし)遺跡から、日本書紀に書かれている斎明天皇の事績を裏付ける王宮の関連施設が発見されたのです。
写真は遺跡の全景と話題となった石製の亀形水槽です。

酒船石(さかふねいし)遺跡全景の写真  石製の亀形水槽の写真

 この遺跡は大規模な石垣、石敷きの広場そして導水施設(亀形水槽)からできていて、有名な酒船石から水がひかれ壮大な施設だったと推定されています。
 ですから日本書紀の記述はまったくの絵空ごとではなく、事実に即した可能性が強いと考えられます。
ある研究者も推定するように捕虜の粛鎮が連れてこられた「王宮の池そば」はこの場所だった可能性があります。
 このことから阿倍比羅夫の北征は事実であり、北海道、それも石狩川のほとりで激戦があった可能性が一層強まったということができるでしょう。
いつの日か市内の本町・八幡(はちまん)地区の石狩川岸で激戦の跡が発見されることを期待しましょう。
 今回使用した写真は奈良県明日香村教育委員会のご厚意で借用したものです。(石橋孝夫)

注1 655年から661年まで在位。女性で大化の改新まではこうぎょく皇極天皇。
注2 北日本にいたアイヌ民族の祖先と考えられる民族。
注3 蝦夷とは異なる民族で定説はない。