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いしかり博物誌/第2回

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年7月31日更新


第2回 市内で最も古くからヒトが住んだ場所-花川

今月この欄を担当するのは、学芸員の工藤義衛さん。専門は北海道考古学、とくに縄文時代を研究しています。
現在、花川にある紅葉山49号遺跡を調査中です。

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発見された花川最古の家の写真

花川南北地区は、昭和40年代初めから大規模な宅地造成が始まり、現在、石狩市の住民の8割が住む、市の中心核です。
一般に花川は、明治初めの入殖からはじまった歴史の浅いところと思われていますが、明治以前の花川は、市内でもっとも古くからヒトが住んだ場所のひとつで、歴史の古いところであることがわかります。
今回は、花川でヒトが生活をはじめた頃のお話をしてみましょう。

発掘調査が進む紅葉山49号遺跡の写真


前号の本欄を担当した志賀学芸員は、石狩市の平野部の成立について触れていましたが、約5千年前にできた紅葉山砂丘は、同時期の縄文時代の遺跡が残されており、最初にヒトが住んだ場所でもあるのです。
現在発掘している紅葉山49号遺跡は、縄文時代前期後半から江戸時代までの各時期にわたる遺跡で、縄文時代前期から中期ころは青森県三内丸山遺跡と同じ文化圏に属し、同系の土器や石器、装身具などが出土しています。
昨年、この遺跡では初めて5千年前の住居跡が発見されました。 写真はその住居で、円形で二段の掘り込みのある広さ約20平方メートルほどのものです。
この家の一段高いところは「ベッド」とよばれ、この時期の最新の形です。
当時、砂丘を越えた北側、つまり現在住宅地になっているところにはまだ海があり、反対に内陸側は現在の札幌市北区を含む大規模な沼沢地がひろがっていたと推測されます。
このような環境の中、最初の花川人は海川の漁を主体とし、ときには高岡や厚田村などにも足をのばし石器の材料となる石を探したり狩りをしていたと推定されます。
このあと、平野部は海水面の低下などで陸化してゆき、縄文時代の終わり頃にはほぼ陸化が終わっていたとみられます。
しかし、紅葉山砂丘を含む平野部の成立に関しては未解明の部分があり、とくに土器からみた年代と地質学の年代では相違がみられ、さらに調査が必要となっています。