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いしかり博物誌/第48回

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年7月31日更新


第48回ベルツの見た樺太アイヌ 100年ぶりに明らかになったベルツの樺太アイヌ調査

八幡(はちまん)墓地にひとつの石碑が建っています。明治初めに樺太から連れてこられ、石狩河口右岸の来札(らいさつ)でサケ漁に従事し、コレラや天然痘によって多くの方が亡くなった樺太アイヌの数奇な運命を伝える石碑です。
この石狩の樺太アイヌの人々を調査した学者にエルウイン・フォン・ベルツ(Erwin von Baelz 1849から1913)がいます。ベルツは、東京帝国大学で内科学、産婦人科などを教え、臨床を重視する実直な学風を日本に伝えたことから「日本近代医学の祖」と呼ばれるドイツ人です。東大を辞めたあと、明治天皇の侍医となったほか、温泉治療を提唱したり、美肌効果のある「ベルツ水」を発明したことはよく知られています。

エルウイン・フォン・ベルツの写真
エルウイン・フォン・ベルツ

ベルツは、明治30(1897)年に一度だけ樺太アイヌ調査を目的に石狩を訪れました。その様子は、随行した関場不二彦(せきばふじひこ)が「石狩遊記」として発表しています。残念ながらこの報告は、石狩に到着したところで終わっており、その続きも発表されなかったことからベルツがどのような調査を行ったのか、まったくの謎となっていました。

対雁(ついしかり、江別市)の樺太アイヌ(「江別市史」より)の写真
対雁(ついしかり、江別市)の樺太アイヌ(「江別市史」より)

ところが、この調査の全容を記録した関場不二彦の自筆原稿が、札幌の医学史研究家、宮下舜一(みやしたしゅんいち)氏によって、このほど発見されました。この中には、ベルツによる形質人類学的な所見や樺太アイヌの特徴的な墓標や木棺などのスケッチが残されています。
これまで、このような石狩の樺太アイヌについての学術的な記録は全くといっていいほど無く、たいへん貴重な資料であることは間違いありません。

宮下さんは、このほど石狩市郷土研究会に招かれて花川北コミセンで行われる公開講座で発表されます(※平成15(2003)年10月終了)。当日は宮下さんだけでなく郷土史家の田中實(みのる)さん、樺太アイヌ史研究会の豊川重雄(とよかわしげお)さんなども講演される予定です。ベルツは石狩でどのような調査を行ったのか、そしてそのとき石狩の人々はどのような役割を果たしたのかなどさまざまな方向から検討が加えられるようですので、ぜひ聞きに行きたいと思っています。

関場不二彦(せきばふじひこ)の「石狩遊記」の直筆現行の写真
関場不二彦の「石狩遊記」の直筆原稿

関場不二彦(せきばふじひこ):
慶応元(1865)年、福島県会津生まれ、昭和14(1939)年没。号は理堂。
東京帝国大学医学部卒。公立札幌病院長、のち北辰病院(現札幌社会保険総合病院)を創立。
北海道医師会初代会長。
考古学、民族学に関心が強く、専門の外科に関する論文のほか、アイヌの医療衛生に関する論文を多く残した。

(工藤義衛 広報いしかり2003年10月号掲載)