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史跡荘内藩ハママシケ陣屋跡

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年1月25日更新

史跡荘内藩ハママシケ陣屋跡大手門の写真

安政6(1859)年、幕府から警護を命ぜられた荘内藩は、現在の川下(かわしも)地区を開拓し、十余棟の邸舎を建て、それを御陣屋と称していました。この跡が今も川下(かわしも)神社横に残り、昭和63年5月に国指定の史跡となりました。指定地内には、邸舎跡を示す木柱があります。(指定面積:167,809平方メートル)

大手門からの海

史跡荘内藩ハママシケ陣屋跡全景

 

荘内藩ハママシケ陣屋跡

 

安政6年(1859年)、幕府は蝦夷地を奥州6藩に分け与え、その警備を命令しました。

荘内藩は本村を含む日本海に面する西海岸一帯(留萌・苫前・天塩など)40余里に及ぶ地域を拝領しました。翌、万延元年、家老松平舎人を総奉行として現地調査を行い、意見書を提出しました。この調査を基に二代目総奉行酒井玄蕃了明が赴任し、警備・開拓の本陣を「ハママシケ」(浜益)に設けたのがこの場所で、奉行所をはじめ寺・神社・長屋などを建て、集落が作られました。

一行は永住計画に基づき各種の職人・農民を集め、人員の運搬など蝦夷地渡航用に2隻の弁財船も建造し往復しました。このとき黄金川からこの場所まで水路を設けましたが、その資金が金千両を要したことから「千両堀」と称され現在も残っています。

その後戊辰戦争が勃発して事態が変わり、慶応4年(1868年)には引き揚げ作業が始まり7年に及ぶ年月と莫大な費用をかけた荘内藩蝦夷地拝領地の警備・開拓は終わりました。

※現在の大手門は、浜益区在住の有志「荘内藩陣屋研究会」が「公益財団法人 太陽財団」から補助を受けて建て替え工事を行い、令和3年7月21日竣工し、石狩市に寄贈したものです。

石狩市教育委員会

 

陣屋跡神社

荘内藩陣屋跡の詳細については、石狩ファイル0103-01「荘内藩ハママシケ陣屋跡」のページもご参照ください。

http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/museum/if0103.html

 

はまます郷土資料館/史跡荘内藩ハママシケ陣屋跡