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石狩市の歴史

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年7月31日更新


石狩の誕生

今からおよそ6,000年前、現在の石狩市の大部分は海の底でした。温暖な気候によって海水面が上昇していたためです。海は現在の札幌や江別にまで広がっていましたが、その後、砂丘が水上に現れてまもなく、縄文人が活動を始め、以後、砂丘は4,000年間にわたって古代人の生活の場となりました。縄文時代の遺跡で発見された家の跡からは、サケの骨が発見されており、縄文時代からサケ漁が行われていたことがわかります。また、平野部の遺跡は、石狩川に面した砂丘上に集中しており、古代人たちは、石狩川と深いかかわりをもって生活していたことがわかります。

賑わうイシカリ

江戸時代になると松前藩は、アイヌと交易する区域をいくつかの「場所」とよぶ区域にわけ、この「場所」での交易を、一定の運上金と引き換えに場所請負人とよばれる商人にまかせるようになります。
場所請負人の代表格が石狩場所の村山家です。石狩だけでなくルルモッペ(留萌)、宗谷、クナシリ場所なども請け負い、持ち船は数十隻、一年間の儲けは6万両といわれ、日本屈指の豪商として知られました。最盛期には松前藩の参勤交代の費用まで出したといわれています。

石狩弁天社と川の主

弁天歴史通にのこる石狩弁天社は、元禄7年(1694年)に創建され、文化13年(1816年)に村山家が再建したもので、石狩場所の役人、松前や江戸の問屋が奉納した鳥居や鰐口、手水鉢などが残されており、村山家の繁栄とイシカリをめぐる交易のひろがりを伝えています。

道央で最も古い歴史を持つ石狩弁天社の写真
道央で最も古い歴史を持つ、石狩弁天社

また、石狩弁天社には、「石狩川の主」といわれ、鮭漁の神様として「鮫様(妙亀法鮫大明神=みょうき ほうこう だいみょうじん)」がまつられ、今も信仰されています。幕末に函館奉行だった村垣淡路守のつくった絵図をみると、この頃のイシカリには、現在の弁天歴史通に沿って、石狩弁天社、元小屋(交易の場所)がならんでいます。元小屋の前には、高札が立てられており、和人の小屋やアイヌの家、川沿いには材木の集積場のようなものがみえます。

村垣氏西蝦夷巡行図(幕末)
村垣氏西蝦夷巡行図(幕末)

明治時代は、鮭漁の最盛期で、年間百万尾を越える水揚も珍しくありませんでした。そのため、サケの漁期には2,000人以上の出稼ぎ人が入り込み、遊郭や料理屋などの飲食店が十数軒も軒を連ね大いに賑わいました。


石狩の誕生

明治時代になると、愛知県や石川県、高知県などから移住者が入り、花畔(ばんなぐろ)村、生振(おやふる)村、樽川(たるかわ)村の三つの村ができ、近代的な開拓が始まります。石狩の平野部は砂地のため、最初は畑作のほか酪農がさかんにおこなわれました。水田は開拓民の悲願でしたが、砂地での水田耕作は難しく、さまざまな試行錯誤が繰り返された後、昭和3年(1928年)、花畔(ばんなぐろ)地区の農民たちによって本格的な水田耕作に成功し、市内の水田は飛躍的に増加しました。戦後も食料難から造田への意欲は高く、町民あげて大規模な造田工事がおこなわれ、水田地帯にかわりました。

団地造成で開発進む

昭和30年代には、札幌市の人口の急増から大規模団地として注目されるようになります。昭和39年(1964年)、現在の花川南地区が「新札幌団地」として造成が開始されて以降、大規模住宅地として開発が進み、人口はめざましく増加しました。また、昭和48年(1973年)から着工された石狩湾新港は、国際貿易拠点港として期待されています。平成8年(1996年)9月1日に、石狩町は「石狩市」となり市制が施行され、着々と発展をとげています。平成17年(2005年)10月1日に、石狩市・厚田村・浜益村が合併して、新「石狩市」が誕生しました。