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石狩ファイル0089-01(2008年3月25日)

石狩港湾計画のあゆみ(4)昭和初期の計画

いしかりこうわんけいかくのあゆみ4しょうわしょきのけいかく


↑伊藤・中村による石狩港湾構想
↑石狩工業地帯造成計画
(昭和15〜17年)
昭和11(1936)年、伊藤長右衛門(北海道庁技師)と中村廉次(同河港課長)は、石狩港の砂浜を避け、銭函(ぜにばこ)浜に外港を設ける計画案を作成しました。港には東西に防波堤を築き、面積155万m2の外港とし、港からは現在の新川に沿って幅250m、総延長8.2kmの運河を札幌の北部まで建設し、運河周辺を一大工業地帯とする、構想でした。

釧路川や十勝川治水事務所長などを歴任し、本道の治水事業に大きな功績を残した斉藤静脩(北海道庁技師)は、昭和15〜17(1940〜1942)年の3ケ年にわたる詳細な実地調査により「石狩工業港ならびに石狩工業地帯造成計画」を作成します。この計画で特に注目されるのは、石狩港湾の後背地に広大な専用工業地区を設け、将来人口約60万人を想定した工業都市の建設でした。この計画に必要な事業費の概算は約24億5000万円に及びました。石狩工業港の調査費が政府によって認められた背景には、第二次世界大戦の戦局の悪化により、本州にある既存の工業地帯が空襲によって機能がマヒすることを恐れ、地方分散を図る必要迫られていたからでした。

この計画は、当然ながら戦争の終結により実現しませんでしたが、彼が提示した工業港としての構想は、戦後の港湾計画に取り入れられ、現在の「石狩湾新港」と「石狩湾新港工業地域」として実現することになりました。

(木戸口道彰)


参考文献


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