石狩ファイルtop

←【前ページ】   【次ページ】→


石狩ファイル0131-01(2013年9月1日)

金子清一郎

かねこせいいちろう


初代金子清一郎は、天保13(1842)年、北越後の長岡藩瓜生(うりゅう)村(現・新潟県長岡市)の庄屋の家に生まれました。戊辰戦争では官軍に加わり各地を転戦していますが、明治10(1877)年から17年まで生地で戸長を勤めました。しかし、明治21(1888)年、46歳で花畔(ばんなぐろ)村六線(現新港東2丁目)に移住します。この時、自分がこの地に住んだら、数年のうちにこの村落を300以上の戸数にすると公言したそうです。

清一郎は移住後、村民に野生のクワを利用した養蚕を奨励しました。

明治24(1891)年、花畔村総代人に推された清一郎は、実弟の田所正義を越後から呼び寄せ、村の子供たちの教育にあたらせました。明治25年には、毎年融雪期の水害で遮断される道路状況を改善するため、大排水を作ることを道庁に請願しました。和歌山の上山英一郎(うえやまえいいちろう、「金鳥」の創業者)から種を取り寄せて除虫菊栽培も始めています(石狩ファイルNo.40「石狩の除虫菊栽培」参照)。除虫菊については、その後栽培だけにとどまらず、製薬、販売も手掛けました。

明治26年には、7条からなる村民契約証を結びました。また、自費で測量をして区画を定め、殖民地撰定願を提出しています。明治27年には、神社地を定めるとともに共同墓地の撰定を願っています。

こうした清一郎の尽力が実を結び、明治32(1899)年には、花畔村の戸数は325戸となっていました。また、清一郎は、オサットー(現・千歳市長都(おさつ)地区)でのコイ、フナ、ドジョウなどの養殖事業も手掛けています。江別市野幌(のっぽろ)の開拓に功績のあった北越殖民社社長の関矢孫左衛門とは、北越時代から親交がありました。

初代金子清一郎はこのように、大正5(1915)年に75歳で亡くなるまで、花畔村の基盤作りに尽くした人物でした。

跡を継いで大正5年に二代目金子清一郎を襲名した安東岩平は、明治6(1873)年、熊本県飽田(あきた)郡塩屋村に生まれました。明治22(1889)年、16歳で実兄とともに北海道に渡って篠路屯田に移住、明治31(1898)年に初代の長女コウと結婚して金子家の養子となりました。石狩町除虫菊栽培組合長、花畔土功組合議員、町会議員などを歴任した人物です。

(記載年はいずれも金子家文書による)

(石井滋朗)


参考文献


←【前ページ】   【次ページ】→

石狩ファイルtop

いしかり砂丘の風資料館