石狩ファイル0129-01(2012年12月1日)
旧白鳥番屋 |
現在、はまます郷土資料館として残る旧白鳥家番屋は、明治32(1899)年の建築。白鳥栄作は羽後国酒田の人で、安政3(1856)年に来住、運上屋の下請負としてニシン漁業の経営を始めました。元治元(1864)年に甥の浅吉が跡を継ぎ、明治に入って開拓使の漁場貸付を受け、事業の拡張を進めこの番屋を新築しました。その息子、白鳥源作は、大正時代にはニシン沖揚げに蒸気機関によるウインチを導入するなど漁業技術の革新を行い、浜益第一の漁場設備を有していました。
建物は、木造平屋で延床面積365m2。中央の入口をはさんで左右に漁夫の居住区と親方の住居が配置されている典型的なニシン番屋の特徴を残しています。
荘内藩ハママシケ陣屋跡 |
浜益川河口近くの北岸に残る「史跡ハママシケ陣屋跡」は、安政6(1859)年、幕府から領地を与えられた出羽鶴岡藩(通称荘内藩)が蝦夷地の経営を行った際の本拠地として建設したものです。その目的は、蝦夷(えぞ)地をロシアから防衛することと領内の開拓を目指したものです。陣屋内の主な建物としては、奉行所を中心に藩士たちが住む御家中長屋、足軽長屋、大工小屋、火薬蔵をはじめ各種の蔵、演武場などが建てられ、約200人の武士が暮らしていました。
現在は大手門が復元されており、物資の輸送に使われた水路「千両堀」も見ることができます。
黄金山 |
浜益のシンボル黄金山(標高739.1m)は、その山容が富士山に似ていることから地元の人々は親しみを込めて「浜益富士」「黄金富士」と呼んでいます。この山は、新生代新第三紀鮮新世(せんしんせい、530万年前〜260万年前)にマグマが地表付近に上昇して冷えて固まり、その後、周囲のもろい部分が崩落して今のような姿になったと考えられています。「黄金山」という名前の由来は、その昔この付近で金が採掘されたからだと伝えられています。初心者にも絶好の登山コースとして親しまれています。
(木戸口道彰)
参考文献