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はまます昔話

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年7月31日更新

 

 

はまます昔話

はまます昔話
はまます地区に昔から伝わるお話を紹介します。
 
   
 
収録地域:
おふゆ・ちょしべつ・とこたん・ぽろ・くんべつ・はまます・かわしも・みた・ごりょうち・かしわぎ・びしゃべつ・おくりげ・ごきびる
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1.岡島どうくつ
 
   
 
むかしむかし、そのまたむかし・・・・・・、
浜益に文字をもたない、先住民族が住んでたんだど。
発掘調査によって、先住民族の住居跡とわかったんだとさ-。
どうくつの中からは、人骨・土器・石器など、数多くの出土品が発見されたんだと。
今じゃ、郷土資料館に大切に保管してあるんだってよ。
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2.西蝦夷日誌
 
   
 
江戸時代に、「松浦武四郎」という人が、蝦夷地の調査のために、北海道さ来たんだってよ-。
そんとき、浜益さもよったと。
して、「川下村に、いかや十戸あり」と「西蝦夷日誌」に書き残したと。
どんな人が住んでいたんたべのっ。
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3.荘内藩陣屋(川下地区)
 
   
 
むかし、山形の荘内藩は、ロシアより蝦夷地を守るため、川下に陣屋をおいたんだと。
警備と開拓を目的に、たくさんの人がやってきたんだと。
しかし、十年後、「戊辰戦争」がおこり、荘内藩の人たちは、ひきあげてしまったんだと。
大川が、今の国道沿いに岡島の近くまで流れていたと。
柏木にいくには、渡し舟があって、二銭で、人や荷物を運んでけだんだと。
七月の地蔵さん祭りには夜店が並んで、氷水やグスベリの計り売りやらおやき屋やらが出て、おまいりする人もたくさんいて、たいした、にぎわったもんだと。
百三十年の歴史がある「八幡神社のお祭り」には、てんぐ舞やら、やっこ道中やら、神楽やらと、長~い行列ができて、今でも、とってもにぎやかなお祭りだよ。
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4.小さな阿弥陀様(実田(みた)地区)
 
   
 
むかし、「村岡吉太夫」という人の娘が、家の前の川で、小さな阿弥陀様を拾ったと。
それが縁で、この集落を「実田(みた)村」と呼ぶんだと。
逆川の上流には、天然の温泉がわいていたそうで、たくさんの湯治客が絶えなかったそうだ。
したども、長ーい年月の間に、なくなってしまったんだと。
もったいねえのっ。
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5.深い弁財ぶち(実田(みた)地区)
 
   
 
大正時代には、たびたび、大冷害がおこっていたんだと。
そうどきは、食べる米や種もみすらなくって、苦しかったと。
子どもたちも家の手伝いをやらされ、そんなかでも、石臼で、粉をひかされるのが、一番ゆるぐねがったんだと。
実田(みた)の浜中には、りんごの木が植えられ、今でもその木の一部は、岩山さんの家にのこっていると。
八百石もの弁財船が入ってこれるほどの深~い川の「弁財ぶち」もあったんだと。
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6.濃昼(ごきびる)の龍神様
 
   
 
濃昼(ごきびる)とはアイヌ語で、「滝つぼにしぶきが舞う」という意味なんだと。
ニシン漁で栄えて、「ヤン衆」は、ひと春に百円もの大金をかせいで、海をわたって帰ったそうだ。
網元は、どっさりつくったニシン粕を「北前船」にのせて、津軽のほうさ、売りにいったもんだと。
帰りは、いっつも秋になってしまうんだと。
ある日、二人のヤン衆が、ニシン漁で使うカゴをつくろうと、山さのぼったと。
にわか雨が降ってきて、そばの大きな木の下で、寒っぐて、寒っぐて、火をたき、そのまんまにして山をおりたんだと。
夜になると、かみなりとともに、火柱が上がったんだと。次の日にいってみると、ものすんごく大きな蛇の骨があったんだと。
その骨を足でけり、そのまんま村さ、帰ったんだと。
それから間もなく、二人は病気で死んでしまい、その網元もすぐに、つぶれちまったんだと。
大蛇は、千年の修行を終え、天にのぼるはずだったんだとさ・・・・・・。
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7.マシケ場所(浜益地区)
 
   
 
むかしの浜益は、「マシケ場所」と呼ばれていて、原住民と和人とのものの交換場所があったとこなんだと。
寺子屋もあったし、明治五年に戸長役場ができたときは、病院もできたんだと。
ニシン漁の全盛時代には、大きな網元が何件もあり、合同会社もできて、すばらしい「レンガ倉」も建っていたと。
みそ・しょう油・お酒をつくるお店や、銀行・質屋に劇場やふろ屋などのお店もあったとかで、商店街として、たいした栄えていたところだったと。
明治三十年に小樽と浜益の間に、「汽船」がとおって、たちまち便利になって、港は、ニシン場とはまたひと味ちがった、にぎわいをみせていたもんなんだと。
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8.あかげ(柏木地区)
 
   
 
むかしの開こんのはじまりは、浜益川の川沿いからだったと。
野菜からはじめて、「あかげ」という品種をまいたのが、稲作のはじまりだったんだと。
昭和八年には、今の黄金小学校が、焼けてしまったんだと。
廊下をものすごい勢いで、火が走ったもんだと。
もとにもどるまでは、農家の納屋の仮の教室で、りんご箱を机にして、勉強したもんだと。
ニシン漁が栄えて、木材・まき材の需要も急に増えたんだと。
切り出すキコリと馬が、一緒になって、山小屋で共同生活をしてたもんなんだと。
昭和七年に木工場ができたども、木炭の「ガズエンジン」が使われていたもんなんだと。
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9.恐ろしい熊(御料地(ごりょうち)地区)
 
   
 
御料地(ごりょうち)とは、御料林があったので、この名がついたそうだ。
泥川には、駅ていがおかれ、はたごを営み、郵便物や荷物の受け渡しをしていたんだと。
夏は馬車。冬は馬そりに乗って、運んでくれるんだが、ふぶきで何日も何日も届かなかったことがあったんだと。
大正のはじめの、ある雪の降りはじめたときに、兄弟で山に行く途中に、突然、大きな大きな「熊」にでくわしたんだと。
おどろいた馬にふり落とされた弟は、そのまんま熊が、つれていってしまったと・・・・・・。
次の日の朝はやぐに、熊にくわしい、「天川恵三郎」さんを頼んで、村中で熊狩りをしたども、弟は帰ってこなかったと・・・・・・。
射止めた熊は、馬そりにあまるだけの大きな熊だったと。
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10.黄金時代(群別(くんべつ)地区)
 
   
 
群別(くんべつ)とは、アイヌ語で、「ホンクンベツ」といい、小石の川、危ない川という意味なんだと。
浜益地区までは、海岸づたいに、山石を飛びながら、歩いていったもんだと。
この群別(くんべつ)は、ニシンで栄えた村で、大漁のときは、海が真っ白に“くき(群来)”て、とれすぎて、とれすぎて、船がしずみそうになったもんなんだと。
浜は、にぎわい、猫の手もかりたいほどいそがしくて、沖は、夜おそくまで網をおこし、おかでは、わらじばきに、手がけをはいて、大勢の女のひとたちのモッコしょい・・・・・・。
ガス燈のあかりでニシンをつぶし、ニシンをさいて、ザッパは、ニシン粕さして、農家さ肥料として、売ったもんだと。
浜は番屋が立ち並び、なかでも「長谷川漁場」の“空窓”は、幅二けん、長さ十けんの大きさなもんで、くらい番屋のあかり取りとして、つくられたもんだと。
群別(くんべつ)川の下流に、高く長いやままるのつり橋があったんだと。
足をかけるとゆれ動いて、下を見ると、とっても、おっがなくて、よつんばいになって、渡ったもんなんだと。
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11.金山と下駄(千代志別(ちよしべつ)地区)
 
   
 
むかしこの村は、「金」がとれたんだと。
金山までの道のりは、歩いて、五時間もかかったもんだと。
村には、木工場もあり、水車で、製材して、下駄もつくっていたもんなんだと。
その下駄は、村内・増毛・小樽に運ばれて、たくさんの人の足を飾って、楽しませてだんだべのっ。
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12.おふどう様(毘砂別(びしゃべつ)地区)
 
   
 
毘砂別(びしゃべつ)は、アイヌ語で、「トミサンベツ」というんだと。
むかしは、柏木までの道路がなくて、網元が、自分のお金をはだいで、道路をつけてくれたんだと。
地元の「あかねんど」をつかって、レンガ工場を建てたんだと。
浜益地区に建っていたという、レンガ倉庫は、ここのレンガをつかったんだと。
おふどう様は、☆送の「茸平」さんとかいう人が、道中の安全をいのって、建てたもんなんだと。
今から、十年ほど前に、山火事があったども、おふどう様のすぐ後ろまできて、ピタッと止まったもんだと。
したども、残念なことに、たいせつな“冷や水”は、少なくなってしまったんだと。
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13.開拓使のりんご(幌(ぽろ)地区)
 
   
 
幌(ぽろ)のりんご園は、開拓使が苗をくばったことから、はじまったんだと。
収穫したりんごは、てんびん棒でかつぎ出し、リヤカーで、はかり売りして歩いたもんだと。
「ポンポン船」にりんごを積んで、石狩川をのぼって、江別や、ときには遠く樺太までも売りにいったもんなんだと。
ニシンがいっぺいとれて、拾いニシンをして、かわかして、りんごの木のまわりにうめたんだと。
これが肥料になって、幌(ぽろ)のりんごは、すんごく、めんだと。
りんごの木は、熊がでないようにと、山の神として、おがんだもんだと。
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14.山道とキツネ(床丹(とこたん)地区)
 
   
 
床丹(とこたん)は、アイヌ語で「まむしのいるところ」というんだと。
春は、ニシン場で、大忙しだったんだと。
それが終わると、女の人たちは、ほかの魚を売りに、危険な山道を歩き、幌までいったもんだと。
山の沢の橋の上さ、さしかかると、あちこちから、ちょうちんの行列が、はじまるんだと。
ちょうちんの正体は、キツネが、自分のひげにふきかけた息で、それが月明かりに照らされて、ポワ~ン、ポワ~ンと、見えるんだと。
キツネの嫁入りなんださのっ。
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15.国道の開通(雄冬(おふゆ)地区)
 
   
 
雄冬(おふゆ)は、アイヌ語で、「ウフイプ」というんだと。
むかし、増毛と浜益の両側から、道がつくられたんだと。
馬の背のような道だったので、それは、それは、ゆるぐねいもんだったと。
とど島付近は、ものすんごいニシンだったと。網には穴があき、あっちこっちさ、バナナのように、たれさがっていたもんだと。
海のダイヤモンドと呼ばれた“数の子”は、干す場所がなくなると、屋根の上や、家の中にまで、干したもんだと。屋根が平たいのは、このためなんだと。
昭和五十六年に「幻の国道」が開通したときは、本当にありがでがったや-。
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16.御神木「千本なら」(送毛(おくりげ)地区)
 
   
 
送毛(おくりげ)山道のてっぺんは、山の神がまつられていて、住民の安全を願っているんだと。
ニシン時期は、北前船で、ヤン衆が、津軽のみやげをいっぺー持ってきたもんだと。
よく、たきたてのニシン粕の中の数の子をとり出して、くったもんだと。
ホクホクしてて、めぇがったもんなんだと。
春は、桜が、たくさん咲く送毛(おくりげ)山道。
千本ならも国の名木に選ばれ、三本の御神木に、日本中から、お参りがくるようになった。
村も、チョッピリ、にぎやかになったかな。
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17.軌道にのったホタテ
 
   
 
ニシンがとれなくなって何十年たったべ・・・・・・。
村の漁業は、変わろうとしているんだと。
ホタテの養殖は、小指のつめよりも小さな、稚貝を、だいじに、だいじに育てるんだと。
手間ひまかけて育てられ、みんなの口に入るのは、三年もかかるもんなんだと。
日本海に面した浜益の漁業は、いろんな魚貝たちに、恵まれているんだな。
これから、ますます、栄えて欲しいもんだの-。
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18.大評判の浜益米
 
   
 
近頃の農業は減反がおおくて、たいへんなんだと。
したども、減反地に、メロンや麦がつくられたり、和牛の飼育も盛んにおこなわれているんだと。
今では、浜益産「きらら397」は、とってもおいしくって、評判なんだと。
村内はもとより、日本中でも、大変喜ばれているんだと。
いがった、いがった・・・・・・。
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19.みんなの夢
 
   
 
これからの浜益村・・・・・・。
自然のままの、海の底がみられる、海中水族館があってもいいなぁー。
大人も子どもも、元気で、生きがいをもてる、村であったらいいなー。
みんなで力を合わせて、この村に、ずーっと、住んでいこうよー。
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