いしかり博物誌/第40回

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ページID 1002113  更新日 2025年2月28日

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第40回井上伝蔵の句碑

井上伝蔵の句碑が弁天歴史公園に建立されているのはご存知でしょうか。井上伝蔵は秩父事件の指導者のひとりです。秩父の大商店の店主でありながら事件に加わり、逃亡するうちに欠席裁判で死刑判決を受けました。北海道に逃れ、石狩には明治22年頃にやってきたと言われています。名を伊藤房次郎(いとうふさじろう)と変えて代書業と小間物商を営んでいました。明治44(1911)年に札幌に移り、大正7(1918)年、野付牛(現在の北見市)で生涯を閉じています。当時、伝蔵の逃亡生活とその死は、新聞などに大きく報じられました。

写真:井上伝蔵の句碑


井上伝蔵は、石狩で尚古社(しょうこしゃ)という俳句結社に入り、いくつかの句を残しています。尚古社は明治から大正にかけて北海道を代表する俳句結社でした。尚古社は、明治35年、亡くなった社員(会員)の追悼のため、全国から俳句を募集して句集を刊行するというイベントを行っています。応募者は北海道はもちろん遠く沖縄まで及び約3500句が集りました。冒頭で紹介した石碑に刻まれた俳句「俤(おもかげ)の目にちらつくやたま祭」という句はこの尚古集に収録されています。武装蜂起から逃亡、死刑判決、偽名での生活と数奇な一生を送った伝蔵ですが、そのまぶたにちらついていたのは、亡くなった尚古社の人たちのおもかげだったのか、それとも秩父事件でともに戦った人々のおもかげだったのでしょうか。
(工藤義衛)

明治30年代の写真:井上伝蔵といわれる人物

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