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いしかり博物誌/第12回

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年7月31日更新


第12回 蝦夷地(えぞち)の関帝(かんてい)信仰

 写真は「関羽正装図」(かんうせいそうず)で、本町にある石狩弁天社に幕末に奉納されたものです。この絵は縦1.7メートル、横1.6メートルのケヤキの板に描かれています。下地にわずかに金色が残っていることから、かつては金箔がはられ大変豪華だったことがうかがわれます。
 「関羽」は3世紀、中国の蜀(しょく)の武将だった人です。たぶん三国志の主役の一人と言った方がわかりいいでしょう。関羽は没後、関帝となり、10世紀ごろから儒教や道教などの影響のもと、商売繁盛の神様・財神、そして科挙(かきょ)試験の神としてあつく信仰されました。現在でも華僑を中心に財神として敬われているそうです。
 石狩弁天社は、元禄7年(1694年)創建で、海上安全と鮭の豊漁を祈る神社です。
日本では関羽像自体珍しいのですが、神社に関羽という取合わせもごく少ないものと思います。
 なぜ石狩弁天社に関羽の絵があるのでしょうか。まだ調査の余地があるのですが、やはり中国と同じに財神として金運、商売繁盛を願うため、奉納されたと考えられます。
 実は一般にはほとんど知られていませんが、この絵が奉納される50年ほど前の享和3年(1803年)、すでに松前に「関帝廟」(かんていびょう)がありました。これは当時、石狩弁天社の神事をつかさどっていた松前神明社の「白鳥氏日記」に書かれています。
 また、最近、藩主などがシッポク料理(中華料理)も食べていたことがわかってきています。これらのことは、鎖国政策にもかかわらず、比較的スムースに蝦夷地に中国文化が入っていたことを示しています。こうしたことが可能だった背景に、中国に輸出されたいりなまこ・干しあわびなどの長崎俵物の取引きが大いに関係していたものと考えられます。
 つまり、石狩弁天社の関羽正装図は石狩場所に関係する商人が財神として奉納したのですが、その背景に蝦夷地の特異な文化環境が隠されているともいえます。この絵は、こうした点から石狩市だけでなく北海道の貴重な文化財ということができます。   (石橋孝夫)

弁天社の関帝正装図の写真   赤い建物が江戸時代末の弁天社(西蝦夷地唐太道中/北海道大学蔵)の写真

写真1(左) 弁天社の関帝正装図/石狩財運招来・商売繁盛!Photo Mayu Saihou
写真2(右) 赤い建物が江戸時代末の弁天社(西蝦夷地唐太道中/北海道大学蔵)