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いしかり博物誌/第14回

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年7月31日更新


第14回 姿を現した四千年前のサケ漁用「えり」

 「魚」偏に、つくりを「入」と書いて「えり」と読みます。これは漁業の方では「網を使
わない定置漁具で、杭と横木などと組み合わせ魚をを誘導して捕獲する仕掛け」と定義しています。この漁法は現在、湖沼や河川などで一部みられるだけとなっています。
 ところで、先日、発見された紅葉山49号遺跡の遺構はまさにこの「えり」なのです。しかも年代測定によって、約4000年前のもので当時すでにこのような漁法が行われていた事が分かりました。紅葉山のものは12メートル前後の川幅に長さ1メートル前後の杭を20センチメートルから50センチメートル間隔で50本打ち込み、一方の川岸近くに魚を溜める場所と、「ど」という取り外し自由の捕獲具を備えていた大変手の込んだ施設です。
 現在まだ調査中ですが川の流れの変化にともなって少なくとも3回作り替えられたとみられ、きちんと管理されていたと考えられます。
 また、この遺構の上流55メートルでは、杭を5、6本単位でコの字形に配置した可能性のある、40本以上の杭の群がみつかっています。現時点では、下流の遺構ほど機能が明らかではありませんが、魚の捕獲施設とみて間違いなく下流と一体の遺構の可能性があります。それではこれらの施設を使ってどのような魚を獲っていたのでしょうか。
 下流の「えり」のすぐ北側では、砂丘上に同時期の住居跡が2軒ありましたが、その内部の土から出た焼けた魚骨がでました。専門家に調べてもらったところ、サケの骨がたくさんありました。専門家はその量から、サケを捕獲する施設が近くにあったと考えていました。この点や出土した銛の大きさや施設が長い間管理されている点などから「えり」はサケ漁用とみて良いと思います。サケは古くから北日本の縄文時代の生活を支えた主要な食料源と推定されていますが、これまでどのような方法で捕らえられていたか具体的には分かりませんでした。
 今回の発見は単に年代が古いという事だけでなく、縄文時代の生活を具体的に復元する上で大変重要で、考古学史上に残る大きな出来事といって良いと思います。   (石橋孝夫)

想定復元図(復元・石橋孝夫 イラスト・山崎真美)の画像     杭列の一部の写真
(左)想定復元図(復元・石橋孝夫 イラスト・山崎真美)    (右)杭列の一部