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いしかり博物誌/第3回

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年7月31日更新


第3回 江戸末期の石狩 「石狩河口図」を読む

今月の本欄は、学芸員の石橋孝夫が担当します。専門は考古学で縄文時代や続縄文時代の埋葬儀式を調べています。

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「石狩河口図」の画像

本年4月、番屋の宿で行なわれた特別展「江戸時代の本町石狩場所と村山家」のため資料調査を行っていたところ、東京大学にこれまでほとんど知られていない江戸末期の石狩の絵地図があることがわかりました。
残念なことに展示には間に合いませんでしたので、今回はこの図を紙上で紹介してみようと思います。
さて、絵地図は安政4年(1857)箱館奉行の一人村垣範正(むらがき のりまさ)が、西蝦夷地(にしえぞち)を見回った際つくられた「村垣氏西蝦夷地巡行図巻」のなかの一枚です。
タイトルは「石狩河口」となっており、一種の鳥瞰図的手法で石狩河口の両岸を描いています。
それでは、図を見て行きましょう。まず、手前に柵で囲まれた5棟ほどの建物があり、中央の建物の前には2段のはしごがあるヤグラがあります。
これらは、別の記録からヤグラのある建物が運上屋(元小屋)で他は石狩役所、侍屋敷と思われま す。
そして、運上屋の前から川岸まで幅広い道路があり、その両側に倉庫や茅葺きの家が立ち並んでいます。
手前の倉庫群の前には、高札場が見られその反対側にはアイヌ独特の倉庫(プー)と思われる小さな建物があります。
さらに、川の中に磯船らしき船が3、4隻います。恐らくこのうちの1隻は渡船だと思われます。
その近くには荷揚げ施設あるいは材木の集積場を思わせる丸太を積み上げたような物もみられます。
同時期の絵図は多数ありますが、この図はひじょうに簡潔で町並み全体を的確に描いている印象があり、他記録と照合が必要ですが、当時の石狩を復原するのに大変役に立つ図と考えられます。
試みに、図だけから現在に当てはめてみると、運上屋の位置がほぼ現在の石狩弁天社付近で、昭和53年廃止の渡船場に向かう道路か、一本手稲山側の道が図の大通りだったと考える事ができます。
つまり、現在の本町、弁天町あたりが江戸末期の石狩の中心街だったと推定されます。また、運上屋は余市町にある重要文化財下ヨイチ運上屋のような形式の建物だったとみられます。
村垣氏は代々「お庭番」の家に生れ、自身も諸国を偵察に行ったり、蝦夷地にも鋳物師として潜入したことがあり、「いもじ奉行(鋳物師奉行)」のあだ名があったそうです。
石狩河口図作成にあたっては、絵師の腕もさることながら奉行の鋭い観察眼が働いていたと想像されます。