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いしかり博物誌/第45回

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年7月31日更新


第45回石狩空襲 今も残る戦争の傷跡

昭和20(1945)年7月14、15日の両日、北海道はほぼ全域にわたってアメリカ海軍による砲爆撃をうけました。2日間の空襲と砲撃による被害は、不明な点も多いのですが、死者1,925人、重軽傷者970人、被災家屋6,680戸、罹災者33,400人(いずれも以上)にのぼったとみられています。

石狩町(当時)も、15日午前・午後の2度にわたって艦載機による攻撃を受けました。午前の空襲は花畔(ばんなぐろ)地区に対する銃撃で牛、馬各1頭が犠牲となりました。午後の空襲は、主に本町地区、八幡(はちまん)町が対象となり、30機以上のアメリカ海軍の艦載機が来襲しました。500ポンド爆弾、5インチロケット弾による爆撃と機銃掃射により、本町地区では3才の女の子を含む10人が、八幡(はちまん)町では3人、計13人の死者が出ました。また、町役場庁舎、海浜ホテルを含む36戸が焼失しました。これは札幌市を含む石狩管内で最大の被害です。このときの機銃弾の薬莢(やっきょう)とロケット弾の一部が現在も市に残っています(写真1、2)。

空襲については公的な記録が残されていない市町村がほとんどですが、石狩には石狩町役場が空襲の経過を記録した『戦災記録簿』と『罹災者名簿』が残されていて、爆撃の経過や被害の状況を知ることができます。

石狩市では毎年7月15日には、石狩空襲を含め戦争で亡くなった方々を慰霊する会を催しています。戦後半世紀を過ぎ、石狩空襲を経験した方々も少なくなっていますが、石狩の人びとが経験した空襲の悲惨さを忘れないようにしたいものです。

石狩市および周辺の空襲を受けた場所を示す画像
石狩市および周辺の空襲(「石狩の空襲を語り継ぐ」より)

5インチロケット弾の一部の写真        米軍機が落とした12.7ミリ機銃の薬きょうと爆弾の破片の写真
写真1:5インチロケット弾の一部   写真2:米軍機が落とした12.7ミリ機銃の薬きょうと爆弾の破片

参考文献:石狩町郷土研究会(1987)石狩の空襲を語り継ぐ.

(工藤義衛 広報いしかり2003年7月号掲載)