石狩の教育史(明治編)
石狩ファイル0020-01(2004年7月1日)
石狩の公的な教育施設は、幕府の直轄領となっていた安政5(1858)年に石狩役所が設置した「教導館(きょうどうかん)」が最初です。教導館はおよそ24坪で、若生に建てられました。石狩役所には教育を担当する係も置かれました。
日本の近代的な教育制度は、明治5(1872)年の「学制頒布」に始まります。「学制」とは、近代的な教育制度の基本方針を示したもので、それまでは、江戸時代以来の寺子屋が続いていました。石狩でも石狩小の前身は、能量寺が開いていた寺子屋ですし、生振小も開拓民がお金を出し合って教員を雇った寺子屋から出発しています。
明治6(1873)年に石狩教育所、花畔教育所が公立の教育所として設置され、続いて明治26(1893)年に生振教育所が設置されました。この3校から若生、高岡、志美、美登位、参泉などの分教場、分校がさらに分かれてゆきました。また、人口の増加に伴い樽川、発泉、五の沢、八の沢にも小学校が設置されていきました。
当時は資格をもつ教員が少なく、各学校は、その確保に苦労しました。花畔村では戸長の金子清一郎が、教員資格をもつ実弟を新潟から呼び寄せて教員にしています。学校の経費は授業料と寄付金などでまかなわれていましたが、それでは足りませんでした。そのため、学校では「学田地(がくでんち)」とよぶ畑をもち、ここからの収益を学校経営にあてていました。
(工藤義衛)
学校名 | 存続期間 | 開校時の名称等、統合等 |
---|---|---|
石狩小学校 | 明治4年から | 寺子屋 |
花川小学校 | 明治6年から | 花畔教育所 |
若生小学校 | 明治19年から昭和26年 |
石狩小学校若生分校 ※発泉小と統合、石狩東小になる |
樽川小学校 | 明治20年から昭和47年 | 寺子屋 ※閉校 |
生振小学校 | 明治26年から | 寺子屋 |
高岡小学校 | 明治30年から平成元年 | 石狩小学校高岡分校 ※石狩東小と統合、八幡小になる |
志美小学校 |
明治32年から昭和53年 |
花畔尋常小学校志美分校 ※閉校 |
美登位小学校 |
明治33年から平成元年 | 生振尋常小学校美登位分校 ※閉校 |
南線小学校 | 明治35年から | 樽川簡易教育所 |
発泉小学校 |
明治35年から昭和26年 |
発泉尋常小学校 ※若生小と統合、石狩東小になる |
参泉小学校 | 明治36年から昭和28年 | 生振小学校参泉分教場 ※生振小へ統合 |
五の沢小学校 | 明治43年から昭和57年 | 五の沢教育所 ※閉校 |
八の沢小学校 | 昭和2年から昭和37年 | 五の沢尋常小学校八の沢特別教授所 ※五の沢小へ統合 |
石狩東小学校 | 昭和27年から昭和64年 | 石狩東小学校 ※若生小と発泉小が統合 |
若葉小学校 | 昭和52年から | |
紅葉山小学校 | 昭和54年から | |
花川南小学校 |
昭和56年から | |
紅南小学校 | 昭和60年から | |
八幡小学校 | 平成元年から | ※石狩東小と高岡小が統合 |
緑苑台小学校 |
平成15年から |
参考文献
- 石狩市(1997)石狩町誌/下.石狩市.
- 生振開村百二十年記念誌編集委員会(1993)生振開村百二十年.生振開村百二十年記念事業協賛会.
- 石狩教育史編纂委員会(1980)石狩教育史.石狩教育研修センター組合.
添付ファイル
PDFファイルをご覧いただくには、「Adobe(R) Reader(R)」が必要です。お持ちでない方はアドビシステムズ社のサイト(新しいウィンドウ)からダウンロード(無料)してください。
このページに関するお問い合わせ
教育委員会社会教育部 文化財課
〒061-3372 北海道石狩市弁天町30番地4
電話:0133-62-3711 ファクス:0133-77-5011
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。