紅葉山砂丘
石狩ファイル0081-01(2007年3月30日)
石狩低地帯北部には、海岸線と平行に2つの細長い砂丘があります。石狩砂丘と紅葉山砂丘です。紅葉山砂丘は石狩湾岸から5~6km内陸を南西-北東方向に延びていて、手稲山麓から花川、生振(おやふる)を経て石狩丘陵へと続いています。長さはおよそ15キロメートル、幅は広いところで500メートルから1キロメートル、標高は平均しておよそ10メートルくらいで、もっとも高い地点(三角点「紅葉山」)では17.8メートルあります。1列の長い砂丘に見えますが、よく見ると大きさ10メートル~数十メートルの小さい砂丘が集まってできていることがわかります。これは季節風によって削られてできた構造です。現在、地表面の大部分はミズナラやイタヤカエデを主体とする自然林やササに覆われているため、外見は一般的な砂丘のイメージとは違ったものになっています。

紅葉山砂丘の起源は、今から6000年前に古石狩湾(こいしかりわん、石狩市南部から札幌市北部にかけて広がっていた内湾)と外海との間に形成されていた砂州です。これは手稲山など札幌西部の山地や、樺戸(かばと)山地南部の石狩丘陵から古石狩湾に流されてきた礫を土台として、波や潮流、風によって運ばれてきた砂が集まってできたものです。その後、およそ5000年前に古石狩湾が陸地化して低地ができるとともに、砂州は砂丘となりました。
低地ができたといっても、そのほとんどは広大な湿地だったため、当時の人間は紅葉山砂丘の上に居住していました。その痕跡として、砂丘上には紅葉山33号遺跡、49号遺跡など、縄文時代から擦文時代にかけての遺跡が数多く存在します。
第二次世界大戦後、農地や宅地の開発、砂利採取などによって砂丘はどんどん削られていき、今では地形の大半が消滅してしまいました。それでも花川東地区~自衛隊演習地、藤女子大学花川キャンパス周辺には、開発を逃れた砂丘がまだ残っています。
(志賀健司)
紅葉山砂丘のできるまで

現在の紅葉山砂丘は海の底です。海流によって砂が集まってきました。

砂はどんどん高くなり、海水面まで達します(砂州)。

海水面が下がり、砂丘が姿をあらわします。風によって砂が集まってきます。

砂丘は完全に陸上になり、人も住むようになります。
参考文献
- 松下勝秀(1979)石狩海岸平野における埋没地形と上部更新~完新統について.第四紀研究,18,69-78.
- 札幌市教育委員会編(1996)さっぽろ文庫77/地形と地質.北海道新聞社.
- 志賀健司(2005a)石狩紅葉山49号遺跡における珪藻遺骸群集と古環境の変遷.石狩紅葉山49号遺跡発掘調査報告書第1分冊,石狩市教育委員会.
- 志賀健司(2005b)石狩紅葉山49号遺跡基底部に見られる砂礫層の礫の形態的特徴.石狩紅葉山49号遺跡発掘調査報告書第1分冊,石狩市教育委員会.
- 上杉陽・遠藤邦彦(1973)石狩海岸平野の地形と土壌について.第四紀研究,12,115-124.
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