石狩港湾計画のあゆみ(1)ケプロンとファン・ゲントの構想

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ページID 1004659  更新日 2025年2月28日

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石狩ファイル0086-01(2008年3月25日)

イラスト:石狩河口改良設計図
石狩河口改良設計図
(明治22年ファン・ゲント作成)

札幌圏の海の物流拠点として大きく発展する石狩湾新港。今日の発展をみるまでには、明治時代の初めから石狩川河口港湾の建設についてさまざまな構想がありました。港づくりに向けて、叡智と情熱をかたむけた幾多の先人の足跡をたどってみます。

ケプロンの構想

明治4(1871)年、開拓使顧問として来日したホーレス・ケプロン(1804~1885)の仕事は、開拓使に雇用された外国人技術者を指揮監督しながら、各種の調査、産業基盤の整備や振興について、意見と指針を開拓使長官に答申するものでした。

ケプロンの推薦により開拓使に雇用されたアメリカ人・ライマンは、幌内(ほろない)炭田を発見します。幌内(ほろない)炭田は九州の高島に匹敵する優良炭田といわれ、その埋蔵量は1億トンと推定されました。ライマンからの報告を受けたケプロンは、豊富な幌内炭を採掘し輸送する方法として、炭鉱から幌向太(ほろむいぶと、現在の岩見沢市)まで鉄道を敷設し、その先は石狩川を河口付近まで小型の船を利用、河口には積出港を建設し大型船に積み換える、という構想を提案しました。明治7(1874)年のケプロンによるこの提案は、石狩川河口港湾計画に関する最初の構想でした。

ファン・ゲントの計画

開拓使は明治11(1878)年、ケプロンの提案に基づき幌内炭鉱の採炭を決定し、石炭を輸送するため鉄道の敷設と積出港としての石狩川河口の改良事業を実施することにします。その技術者として、鉄道建設はアメリカ・パシフィック鉄道の幹部であったクロフォード、港湾建設はオランダのファン・ゲントが採用されます。ファン・ゲントは明治12(1879)年に来日し、開拓使水利技師に任ぜられました。彼の計画は、石狩川を河口手前の大屈曲部分から新たな河道を開削し外海と結び、本流はその下流に堤を設けて締め切るという構想でした。

しかし、開拓使内では、同年11月に札樽道が開通したことによって急に鉄道建設論が優勢になり、小樽までの鉄道延長を正式に決定します。これにより、石狩川河口港湾の建設機運は急速に失われることになります。しかし、将来的には港湾建設のための石狩川河口の大改修の必要性は認識されました。

(木戸口道彰)

参考文献

  • 石狩湾新港史編集委員会(1991)石狩湾新港史.財団法人北海道開発協会.
  • 札幌市教育委員会(1981)さっぽろ文庫19/お雇い外国人.北海道新聞社.
  • 財団法人石狩川振興財団(2003)石狩川舟運史.北海道開発局石狩川開発建設部.

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