石狩油田

Xでポスト
フェイスブックでシェア
ラインでシェア

ページID 1004592  更新日 2025年2月28日

印刷大きな文字で印刷

石狩ファイル0019-01(2004年7月1日)

写真:石狩河畔の送油塔
写真1
石狩河畔の送油塔

石狩では江戸時代末期の安政5(1858)年、箱館奉行石狩詰所の役人が、望来海岸に油の浸出をみて山中に油田の存在を確認していました(写真1)。
その後、油田の権利は何度か移転し、明治36(1903)年、横浜の「インターナショナル」石油会社が本格的な油田開発を始めました。峻別・五の沢でボーリングを行い、数本の良質な油井を掘り当てましたが、埋蔵量が少なく間もなく停滞してしまいました。明治44(1911)年、油田は日本石油株式会社に譲渡され、以後「日本石油株式会社石狩鉱場」と呼ばれるようになりました。


写真:石狩市八の沢の立ち入り禁止、火気厳禁の看板
写真2
今も石油が滲出(石狩市八の沢)

この年、同社は軽川(手稲)駅隣に、敷地約19ヘクタールの「北海道製油所」を建設しました。油田から石狩川河畔(来札)までパイプ油送、石狩川の渡河は長い間「艀」を使用しました。昭和3(1928)年、空中にワイヤロープを張り、石狩川を渡河させました(写真2)。油田から精製工場まで約30キロメートルをパイプライン(原油は直径約5センチメートル、ガソリンは3.3センチメートルパイプ)で結び、全区間の流送が可能となりました(この製油所は昭和20(1945)年7月20日、米艦載機の空爆、石油タンク7基と工場焼失)。

昭和4(1929)年が石狩油田の最盛期でした。年間産油量10000キロリットル、油井188抗、従業者は250人を超えていました。しかし、総埋蔵量が少ないため昭和8(1933)年には、新規ボーリングを中止してしまいました。既存の油井の汲み上げのみでは、年間産油量が5,000キロリットルを下回るようになりました。

昭和16(1941)年、日本は太平洋戦争に突入、南方アジアからの石油がストップし石油が一番欲しい時代でした。国策会社の「帝国石油」が石狩油田事業を総力で支援しましたが回復できず、年産3,000キロリットルに止まり、従業員数は60人に減少してしまいました。
昭和30(1955)年頃になると、原油生産量は年間1,800キロリットルを下回ってしまいました。ついに昭和35(1960)年、58年間にわたる油田の歴史が閉じられました。

(神林 勲)

参考文献

  • 石狩町(1985)石狩町誌/中1.石狩町.
  • 石狩町(1991)石狩町誌/中2.石狩町.
  • 高岡開基百年記念史編集委員会(1984)開基百年記念史.高岡開基百年記念事業協賛会.
  • いしかり暦編集委員会(2001)いしかり暦14号.石狩市郷土研究会.
  • 21世紀に伝える写真集編集委員会(2002)石狩市21世紀に伝える写真集.石狩市教育委員会.
  • 蓑輪早三郎ほか(1968)手稲町誌.札幌市.

添付ファイル

PDFファイルをご覧いただくには、「Adobe(R) Reader(R)」が必要です。お持ちでない方はアドビシステムズ社のサイト(新しいウィンドウ)からダウンロード(無料)してください。

このページに関するお問い合わせ

教育委員会社会教育部 文化財課
〒061-3372 北海道石狩市弁天町30番地4
電話:0133-62-3711 ファクス:0133-77-5011
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。