開拓者の生活

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ページID 1004642  更新日 2025年2月28日

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石狩ファイル0069-01(2006年3月31日)

写真:開拓者が生活した掘立小屋
開拓者が生活した掘立小屋
(北海道開拓記念館ほか,2000)

石狩の開拓は、生振(おやふる)と花畔(ばんなぐろ)で明治4(1871)年に、樽川、高岡で明治18(1885)年に始まりましたが、開拓者の日常生活には大変な困難がありました。

住まい

当初は、丸太を八方から組み合わせ、横木をわたしてヨシやササで編みつけた「おがみ小屋」とか「三角小屋」「編み笠小屋」と呼ばれたものでした。その後、2間掛ける3間くらいの大きさの「掘立小屋」が建てられましたが、これも粗末なもので、屋根や壁はヨシやササで作り、床はヨシ、ササ、麦わらなどの上に筵(むしろ)を敷いたものでした。灯火はカンテラ(ブリキの箱形石油ランプ)や手製のあんどん(木枠に紙をはり中に油皿を入れたもの)が使われましたが、後にランプが普及しました。

食べ物

米など食べられず、ソバ、ムギ、アワ、イナキビ、ジャガイモ、マメ、山菜など、なんでも食料としました。イモ、マメ、ソバのごった煮は「従兄弟煮(いとこに)」と呼ばれ、常食でした。たんぱく源として、出稼ぎの報酬のニシンを、身欠きやヌカ漬にして保存していました。

身につけるもの

衣類は和服で、男は股引(ももひき)、女はモンペが普段着兼仕事着でしたが、予備のものなどなく、主婦は洗濯と繕いに追われる毎日でした。冬は綿入れの着物や「袖なし」「チャンチャンコ」を重ね着して寒さを防ぎ、つまご(足元に覆いをつけたわらじ)を履き、手っかえしと呼ばれた手袋をしていました。また、テント地は外套に、鮭の皮は履物(ケリ)に、柳の皮はぞうりにと、身近かな様々な物が利用されました。

開拓者の日常生活はこのように苦労の連続でしたが、数年後に貸付地の開拓が完了して自分の土地になると、土台付きの家が建てられ、生活も少しずつ安定していきました。しかし、主食のご飯は、大正時代になっても、米より麦の量が多い、黒っぽい麦ご飯でした。

(石井滋朗)

参考文献

  • 高岡開基百年記念誌編集委員会(1984)石狩高岡開基百年記念史.高岡開基百年記念事業協賛会.
  • 生振村愛知県団体開拓百年史編集委員会(1993)生振村愛知県団体開拓百年史.愛知県団体開拓百年記念事業協賛会.
  • 北海道開拓記念館・開拓の村文化振興会(2000)開けゆく大地.北海道開拓記念館.

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このページに関するお問い合わせ

教育委員会社会教育部 文化財課
〒061-3372 北海道石狩市弁天町30番地4
電話:0133-62-3711 ファクス:0133-77-5011
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