快風丸
石狩ファイル0119-01(2010年10月31日)
快風丸とは
徳川光圀(みつくに)の命により蝦夷(えぞ)地探検の目的で、元禄元(1688)年に石狩を訪れた船です。南部、津軽藩の助力を受けて10年間もかかって建造され、長さ27間(約53メートル※注)、幅9間(約18メートル)、帆柱の高さ18間(約35メートル)、木綿5百反の帆に40挺(ちょう)の櫓(ろ)を備えた巨船でした。また、海図や羅針盤など近代的な装備ももっていました。
船出
元禄元年2月(旧暦)、崎山市内を船長に65人の水夫が乗り込み、3年分の食糧を積み、那珂湊(なかみなと、現茨城県ひたちなか市)を出発しました。
松前から石狩へ
松前で松前藩に蝦夷地探検の許可を求めましたが許されず、交渉の末商船の扱いとして石狩までの航行を許されました。
石狩到着
6月21日(旧暦、26~27日の説もある)に石狩河口に到着し40日間ほど停泊して周辺を調査しました。
調査記録
(水戸藩豊田亮(とよだたすく)が書いた「北島志(ほくとうし)」や、「快風丸蝦夷聞書(ききがき)」などに記載されている)
- 集まってきた940人ほどのアイヌに酒を振舞った
- たくさんの鮭が川をのぼり船の櫓にあたるほどであった
- 生鮭100本を米1斗2升と交換した
- アイヌは川端に住み、両岸は木が茂って往来できず船で行き来している
- アイヌの村には一人づつ大将がいて、石狩川流域の惣大将(そうだいしょう)はカルヘカという人物
- 干鮭(からさけ)を細かく切り湯煮して鮫の油をかけて指で食べ、生鮭は氷頭(ひず)の部分を食べる
- 熊笹でふいた家は水生植物を編んで囲っている。口を1か所開けて出入りし、夜は親子兄弟一所に寝ている
- 家の中の地面にいろりを掘り、木をくべてあたっている
- 船が難破漂着してこの地に留まり、アイヌ人を妻として居住する和人が十数人いる
- シャクシャインとの戦いのあと、松前藩はアイヌから刃物や武器を残らず取り上げた
等々を記録しています。
帰還
快風丸は、熊皮、干鮭、塩引き鮭1万本、ラッコ皮、トド皮などを積み、12月に那珂湊に帰港しましたが、その後二度と蝦夷地を訪れることはありませんでした。
(石井滋朗)
※注 当時の1間は6.5尺
参考文献
- 石狩町(1972)石狩町誌/上巻.石狩町.
- 鈴木トミエ(1996)石狩百話.石狩市.
- 石狩市教育委員会文化財・博物館開設準備室(2001)ふるさといしかり.石狩市教育委員会.
- 野沢信義(1998)北方史史料集成第四巻.有限会社北海道出版企画センター.
添付ファイル
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