快風丸

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ページID 1004692  更新日 2025年2月28日

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石狩ファイル0119-01(2010年10月31日)

快風丸とは

徳川光圀(みつくに)の命により蝦夷(えぞ)地探検の目的で、元禄元(1688)年に石狩を訪れた船です。南部、津軽藩の助力を受けて10年間もかかって建造され、長さ27間(約53メートル※注)、幅9間(約18メートル)、帆柱の高さ18間(約35メートル)、木綿5百反の帆に40挺(ちょう)の櫓(ろ)を備えた巨船でした。また、海図や羅針盤など近代的な装備ももっていました。

船出

元禄元年2月(旧暦)、崎山市内を船長に65人の水夫が乗り込み、3年分の食糧を積み、那珂湊(なかみなと、現茨城県ひたちなか市)を出発しました。

松前から石狩へ

松前で松前藩に蝦夷地探検の許可を求めましたが許されず、交渉の末商船の扱いとして石狩までの航行を許されました。

石狩到着

6月21日(旧暦、26~27日の説もある)に石狩河口に到着し40日間ほど停泊して周辺を調査しました。

調査記録

(水戸藩豊田亮(とよだたすく)が書いた「北島志(ほくとうし)」や、「快風丸蝦夷聞書(ききがき)」などに記載されている)

  • 集まってきた940人ほどのアイヌに酒を振舞った
  • たくさんの鮭が川をのぼり船の櫓にあたるほどであった
  • 生鮭100本を米1斗2升と交換した
  • アイヌは川端に住み、両岸は木が茂って往来できず船で行き来している
  • アイヌの村には一人づつ大将がいて、石狩川流域の惣大将(そうだいしょう)はカルヘカという人物
  • 干鮭(からさけ)を細かく切り湯煮して鮫の油をかけて指で食べ、生鮭は氷頭(ひず)の部分を食べる
  • 熊笹でふいた家は水生植物を編んで囲っている。口を1か所開けて出入りし、夜は親子兄弟一所に寝ている
  • 家の中の地面にいろりを掘り、木をくべてあたっている
  • 船が難破漂着してこの地に留まり、アイヌ人を妻として居住する和人が十数人いる
  • シャクシャインとの戦いのあと、松前藩はアイヌから刃物や武器を残らず取り上げた

等々を記録しています。

帰還

快風丸は、熊皮、干鮭、塩引き鮭1万本、ラッコ皮、トド皮などを積み、12月に那珂湊に帰港しましたが、その後二度と蝦夷地を訪れることはありませんでした。

(石井滋朗)

※注 当時の1間は6.5尺

参考文献

  • 石狩町(1972)石狩町誌/上巻.石狩町.
  • 鈴木トミエ(1996)石狩百話.石狩市.
  • 石狩市教育委員会文化財・博物館開設準備室(2001)ふるさといしかり.石狩市教育委員会.
  • 野沢信義(1998)北方史史料集成第四巻.有限会社北海道出版企画センター.

添付ファイル

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このページに関するお問い合わせ

教育委員会社会教育部 文化財課
〒061-3372 北海道石狩市弁天町30番地4
電話:0133-62-3711 ファクス:0133-77-5011
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