明治・大正時代の石狩
石狩ファイル0037-01(2005年9月25日)
石狩にとっての明治・大正時代は、大きな変化の時代であり、さまざまな面で現在の石狩市の原型が出来上がった時代と言えます。
行政
それまでの集落は、石狩川河口及び石狩川の支流沿岸に限られていましたが、開拓移民が内陸部に入植し、生振(おやふる)、花畔(ばんなぐろ)、樽川(たるかわ)、高岡などに新しい集落が生まれました。また、これに伴って新たな行政組織が生まれましたが、明治36(1903)年に統合されて石狩町が誕生し、現在の石狩市の原型が完成しました。
産業
江戸時代以来の鮭漁業は、明治10年代初めに最盛期を迎えますが、その後漁獲量は減少していきました。明治時代に入って、新たに缶詰工場が建設されたり、油田の開発が行われました。港や鉄道敷設なども企画され、現在の石狩湾新港につながる動きもありました。農業は畑作と酪農が中心でしたが、花畔から樽川にかけては湿地であったため、排水路が掘削されました。
町のようす
内陸部にも市街地が形成されていきましたが、依然として本町(ほんちょう)地区は人口も多く、町役場、警察、病院、裁判所などが集中していました。また、石狩川河口渡船場があったため、交通の要地という石狩の重要性は変わりませんでした。
人口の推移をみると、明治4(1871)年に891人だった人口は、明治14(1881)年には6911人となりました。明治39(1906)年には9011人と、9千人を超え、このあと1万人から8千人台を前後することになります。これは明治末ころには、石狩の産業や行政がほぼ安定したことを示しているものと思われます。
文化
本町地区を中心に、江戸時代から続く「尚古社(しょうこしゃ)」という俳句結社が盛んに活動を行っていました。また、生振でも「弥生社」という俳句結社が活動していました。尚古社は、当時の名士だけでなく幅広い層の町民が参加しており、その中には秩父事件の首謀者の一人である井上伝蔵もいました。
災害
石狩川は洪水が多く、何度も大洪水に見舞われています。特に明治31(1898)年は、春先から毎月のように洪水が起き、8月の大洪水は記録的な被害となりました。たびたび起きる洪水のため、大正7年からショートカット工事がはじまり、石狩川河口部の延長18キロメートルの蛇行部は約4キロメートルに短縮されました。
(三島照子)
参考文献
- 石狩市教育委員会文化財・博物館開設準備室(2001)ふるさといしかり.石狩市教育委員会.
添付ファイル
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