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石狩ファイル0024-01(2004年7月20日)

石狩の農業(戦前編)

いしかりののうぎょう(せんぜんへん)


石狩で最初に開拓が始まったのは生振(おやふる)と花畔(ばんなぐろ)で、明治4(1871)年のことです。開拓当初は、森林を伐採したり燃やしたりして耕地を開き、ソバ、粟(あわ)、燕麦(えんばく)、バレイショ、大豆、小豆、小麦、トウモロコシなどを作っていました。

明治7(1884)年ごろからは養蚕も行われ、とくに天然の桑が多かった花畔村で盛んでした。明治25(1892)年には、花畔村で、北海道で初めての除虫菊栽培が始められています。そのほか、明治末から大正期にかけての重要な作物として、亜麻(あま)と燕麦があげられます。これは日露戦争、第一次世界大戦による需要増に応えたもので、とくに燕麦は軍馬の飼料であったため、陸軍が特約して購入しました。また、明治30年代には、樽川村や花畔村で、肥料と現金収入を得るため酪農が行われるようになり、明治末から大正期にかけて、樽川村や花畔村は道内酪農の中心地でした。

しかし、石狩は、もともと地力の乏しい土地が多いうえ、冷害や水害等の災害が多く、農産物の価格も不安定でした。この時代、石狩の農業は大変厳しい状況にありました。

大正末期から昭和初期になると、周辺の市町村では米作りが盛んになってきたこともあり、石狩でも米作りが真剣に考えられるようになっていきました。そして、昭和2(1927)年に、花畔の農民達が、北海道からの補助も認められないなか、80町歩(ha)の水田を自費で作りあげました。これが、第二次世界大戦後に全町に水田が広がる礎となったのです。

(石井滋朗)

農家戸数及び耕地面積の変化
農家戸数(戸)(うち自作農)耕地面積(町歩)
大正7年894(397)田73、畑7,108
昭和5年628(191)
昭和10年693(179)田795、畑4,510
(石狩町誌中巻1、2より)


参考文献


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