石狩ファイル0063-01(2006年3月31日)
岡崎文吉 (石狩川開発建設部,1998) |
岡崎は、明治31(1898)年の大洪水の後に設けられた「北海道治水調査会」の中心でした。明治37(1904)年の洪水などさまざまなデータを収集、解析し、1年間視察した海外の治水事情も踏まえて、明治42(1909)年、道庁に、「石狩川治水計画調査報文」を提出しました。
この中で、岡崎は「自然主義」を唱えています。蛇行した川の流れはそのまま残して、決壊しやすい護岸を補強し、放水路(バイパス)で洪水時の増水を流す方法でした。森林の大切さにも言及しています。この時に算出された、洪水時の最大流量、毎秒8,350m3は、その後70年間にわたり石狩川治水事業の指標となりました。また、岡崎が開発した「コンクリート単床ブロック(ヨーカンブロック)」による護岸工法は、大正・昭和期を通じて日本国内で普及したばかりではなく、アメリカのミシシッピー河では今でも使われています。大正4(1915)年には自身の理論と実践を著書「治水」にまとめています。
明治43(1910)年、石狩川治水事務所長に就任した岡崎は、石狩川の治水工事を、当初は持論の放水路方式で行う予定でした。ところが大正6(1917)年、「石狩川治水事業施工報文」において、蛇行部をショートカットする捷水路(しょうすいろ)方式に変更したのです。この間の詳しい事情は不明ですが、当時主力だった、捷水路派との論争があったとも云われています。
生振・対雁(おやふる・ついしかり)間捷水路工事が始まった大正7(1918)年、岡崎は内務省に転勤となり、同9年には中国へ赴任して、その後、二度と石狩川の治水に関わることはありませんでした。昭和20(1945)年、茅ヶ崎で逝去、73歳でした。
この間、日本の治水工事は、全て捷水路方式で行われ、川の流下能力を高めて水害をへらし、水位の低下により湿地の開発を進めた功績は大きかったのですが、今、環境問題が問われる中、岡崎文吉の「自然主義」が、また、クローズアップされています。
(石井滋朗)
参考文献