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石狩ファイル0009-01(2004年7月1日)

イシカリ場所の変遷

いしかりばしょのへんせん


1.イシカリ場所の開設(慶長年間)
当時のイシカリは、和人はまだほとんど住んでおらず、アイヌが多く住んでいました。イシカリ場所の始まりは、石狩川流域のアイヌの惣大将(大首長)と松前藩から「知行」として権利を認められた藩士(知行主)との交易でした。

2.イシカリ場所の繁栄
知行主は年に一度、小舟を場所に派遣して、干し鮭、鷹・鷲羽、熊・狐・兎等の獣の皮、そのほか数の子など食料品を物々交換で獲得していました。天文年間(1736〜1740)の記録などによると「五百石積から二百万石積の船16隻、石狩川に6月に来て7月に松前へ戻る」、また「ここは秘味がたくさんとれるところで、かつて千石積みの船で12隻分(60万匹)もとれた」という記録もあるところから、その繁栄ぶりがうかがえます。

3.幕府の直轄(文化4年(1807年))
ロシアの南下政策にともない、幕府は目付遠山金四郎景晋らを派遣し、調査を行い、蝦夷地を幕府の直轄地としました。このころのイシカリ場所は、鮭漁の不漁に見まわれました。また、天然痘の大流行があり労働力のアイヌの人口が減っていきました。そのため、労働力が不足し、アイヌや他地方からの出稼ぎ者を一段と強制的に働かせるようになっていきました。

4.イシカリ場所の最後
嘉永6年(1853年)の黒船来航で、蝦夷地に対するロシアの脅威がさらに増大することになり、イシカリ場所は西蝦夷地の行政の中心地となります。これはイシカリ場所の持つ「交通の要衝であること」「蝦夷地随一の鮭大漁場の存在」「石狩川の上・中流域のアイヌとの交易の集散地であること」「広大な石狩平野を背後に持つ今後の発展の可能性」という種々の要素が重要視されたためです。これにより石狩の行政区分は、積丹から厚田までとなり、イシカリ場所はその姿を変えることになりました。

(五十嵐千穂)


参考文献


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