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石狩ファイル0010-01(2004年7月1日)

場所請負人 村山家

ばしょうけおいにんむらやまけ


■村山家の登場
村山家は能登国羽咋郡阿部屋村(現石川県志賀町安部屋)出身で、屋号を「阿部屋」といい、初代伝兵衛は、元禄期に蝦夷地に渡ったと言われています。最初は廻船業(船による輸送業)でしたが、しだいに場所請負にも手を広げていきました。宝永3(1706)年には、宗谷、留萌場所のほか、石狩場所を請負います。 村山家は、新しい漁法を導入するなど、場所運営の手腕に優れており、急速に力をつけてゆきました。三代目の伝兵衛になって松前藩との結びつきも強くなり、明和8(1771)年には、樺太探検を命じられています。

■最盛期の村山家
寛政頃(1789年前後)、村山家の繁栄は最盛期を迎え、東蝦夷地11ヶ所、西蝦夷地7ヶ所のほか、藩が直接交易をしていた場所も請負いました。日本でも有数の長者(資産家)に数えられ、年間の利益は6万両、参勤交代の費用も村山家が出した、などと言われています。 しかし、絶頂期にあった寛政8(1796)年、交易の利権を巡る争いに巻き込まれ、藩主によって全財産を取り上げられてしまいます。3年後にようやく許され、再び重く用いられるようになりました。村山家の場所経営の手腕や幅広い人脈なしに蝦夷地経営は難しかったのです。文化12(1806)年には、石狩十三場所全てを一括して請け負うまでになっています。

■場所請負制度の終り
反面、この頃から場所請負制度が抱える問題点が大きくなり、制度や場所請負人に対する評価も厳しいものになっていきます。幕府の直轄に伴い、何度か断続がありましたが、最終的に明治2(1870)年、場所請負制度は廃止され、村山家も一漁場の経営者となりました。

(工藤義衛)


参考文献


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