石狩ファイル0012-01(2004年7月1日)
第2次世界大戦中の昭和20年(1945)7月14、15日に「北海道空襲」がありました。石狩町も大きな戦災を被りました。
7月14日午前5時前後、レキシントンをはじめとする13隻の空母群を中心とするアメリカ軍機動部隊は、下北半島沖90〜180kmの洋上にあり、1隻平均150機のグラマンなどの艦上機を発進させ、東北及び北海道の釧路、室蘭、苫小牧、函館など大空襲を行いました。その機数は計2,000機近いもので、この攻撃は翌15日も続けられ、石狩町は小樽、札幌、厚田とともに攻撃を受け、大きな被害を出しています。
戦災記録簿による戦災の模様は、昭和20年7月15日午前8時頃、花畔地区(現在の花川)では機銃掃射により牛と馬が撃たれ、おなじ15日午後3時頃、河口の本町地区、八幡地区が空襲されました。30余のアメリカ軍艦載機は石狩上空を旋回反復銃爆撃し、250キロ爆弾30数発、小型爆弾を使用、併せて機銃掃射もあり、爆撃は午後3時半頃やみました。
災害状況は、爆撃により八幡町1ケ所、本町3ケ所から発火したほか、死亡13名、重傷6名、焼失家屋36戸、倒壊10戸などでした。当時石狩浜にあった木造3階建ての大きな白亜のホテルや役場庁舎も爆撃され焼失してしまいました。
空襲にあった人々は、砂丘には樹木がなく敵襲されると危険なため、能量寺の裏の柏林に避難しましたが、大勢の人が家族の名を呼んだり大変な混雑だったと「石狩の空襲を語りつぐ」に書かれています。罹災者は漁業家が所有している倉庫を開放し収容され、炊き出しや食料・ミルク・被服・寝具等の貸給与などの救助が行われました。負傷した人たちは、石狩病院で応急処置・治療が施され、重傷者はバスで市立札幌病院・保全病院に収容されました。
(三島照子)
参考文献