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石狩ファイル0015-01(2004年7月1日)

砂地造田

すなちぞうでん


原生林が蓄えていた腐葉土は、開拓民が作付けを繰り返すうちに地力が低下してしまいました。酪農で堆肥を補いながら耕作を続けましたが、作物の収量は次第に減少していきました。春の強風で砂と一緒に種子や苗が吹き飛び、ときにはイナゴの食害もあって(写真1)、畑作酪農混合経営は立ち行かなくなってしまいました。

大正時代に入り、ますます農家が疲弊していくのを若い僧侶・飯尾円什は憂い「農家の窮状を救う道は稲作以外ない」と、熱心に救済を説いて回りました。
昭和2(1927)年、ついに花畔地区の農民有志は私費を投じ電力揚水を購入し、人力・蓄力作業による小規模造田に立ち上がりました。これを契機に同様な造田作業が各地区で進められていきました。
しかし、造田には揚水機・水路掘削・整地等、莫大な資金が必要です。個人の資力では規模拡大はとても無理でした。何度も道庁・農林省に開田の許可と資金を求めましたが、「砂地造田」は保水が困難と門前払いのまま、年月は経過していきました。

農民の一人が、かって石狩の開拓者仲間で牧場を営む町村敬貴に「砂地造田」の農林省に対する打開策を頼みに行きました。
昭和22(1947)年、高橋正ほか農民達は農林省の役人の前で、石狩の土砂が入った缶に水を注ぎました。当然に缶の底穴から水が漏れてきました。一度水を含んだ缶の土砂に、再び水を注いだところ、もう多量の水が漏れることはありませんでした。農林省はついに「砂地造田」の施工許可を出しました。これにより造田工事にかかる莫大な資金の目途がついたのです。

飯尾円什はこの年、農民から推されて町長になりました。戦後の食糧難時代で米が非常に不足していました。昭和22〜29年にかけて、町長は食糧増産のため、砂地の畑や牧草地に大規模な「砂地造田」を一斉に進めました(写真2)。これにより石狩町の米の作付け面積は3,200ha、生産量は25万俵(15,000t)と、良質米生産地の名声を高めました。

(神林 勲)


参考文献


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