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石狩ファイル0019-01(2004年7月1日)

石狩油田

いしかりゆでん


石狩では江戸時代末期の安政5(1858)年、箱館奉行石狩詰所の役人が、望来海岸に油の浸出をみて山中に油田の存在を確認していました(写真1)。
その後、油田の権利は何度か移転し、明治36(1903)年、横浜の「インターナショナル」石油会社が本格的な油田開発を始めました。峻別・五の沢でボーリングを行い、数本の良質な油井を掘り当てましたが、埋蔵量が少なく間もなく停滞してしまいました。明治44(1911)年、油田は日本石油(株)に譲渡され、以後「日本石油(株)石狩鉱場」と呼ばれるようになりました。

この年、同社は軽川(手稲)駅隣に、敷地約19haの「北海道製油所」を建設しました。油田から石狩川河畔(来札)までパイプ油送、石狩川の渡河は長い間「艀」を使用しました。昭和3(1928)年、空中にワイヤロープを張り、石狩川を渡河させました(写真2)。油田から精製工場まで約30kmをパイプライン(原油は直径約5cm、ガソリンは3.3cmパイプ)で結び、全区間の流送が可能となりました(この製油所は昭和20(1945)年7月20日、米艦載機の空爆、石油タンク7基と工場焼失)。

昭和4(1929)年が石狩油田の最盛期でした。年間産油量10,000キロリットル、油井188抗、従業者は250人を超えていました。しかし、総埋蔵量が少ないため昭和8(1933)年には、新規ボーリングを中止してしまいました。既存の油井の汲み上げのみでは、年間産油量が5,000キロリットルを下回るようになりました。

昭和16(1941)年、日本は太平洋戦争に突入、南方アジアからの石油がストップし石油が一番欲しい時代でした。国策会社の「帝国石油」が石狩油田事業を総力で支援しましたが回復できず、年産3,000キロリットルに止まり、従業員数は60人に減少してしまいました。
昭和30(1955)年頃になると、原油生産量は年間1,800キロリットルを下回ってしまいました。ついに昭和35(1960)年、58年間にわたる油田の歴史が閉じられました。

(神林 勲)


参考文献


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