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石狩ファイル0027-01(2005年2月5日)

知津狩川

しらつかりがわ


石狩市と厚田村の境を流れている川ですが、その名の由来はアイヌ語で「シララ・トゥカリ 岩の此方(こなた)」と書き、「石狩の方からずっと砂浜続きの処であったのが初めて山崎がでている処」で、「岬の先の海中には岩が処々にでている」と言われることから、「shirar-tukari(岩の・手前)を続けて言う時は語尾のrがtになる」ので、シラットゥカリになったと言われます。

昭和4(1929)年に、上流部の地蔵沢(じぞうさわ)、五の沢に貯水池工事が行なわれましたが、当時は川幅が狭く非常に曲がりくねっていたため水の流れが悪く、河岸に面する一部の低地においては、毎年のように水害に襲われていました。昭和11(1936)年から、国営の回収工事が5ケ年計画で行なわれたことにより、水害はなくなりましたが、それでも昭和36、37、40(1961、62、65)年の石狩地方集中豪雨の際には、大きな被害を出しました。

その当時の石狩町には、石狩川をはじめとする河川の被害から住民を守るため、水防組合の連合会があり、知津狩川に面している高岡地域でも、昭和42(1967)年3月25日に住民58名をもって高岡水防組合を設立しました。その後、河川の治水事業の実施などにより環境事情を改善されて、町の連合会も解散したことに伴い、高岡水防組合も解散し、昭和58(1983)年4月からは、高富(たかとみ)土地改良地区の河川環境整備事業に引き継がれました。

石狩市最北端の阿蘇岩(あそいわ)山に源を発し、かつては日本海に直接注ぎ込んでいた川でしたが、以上のような水害防止等の治水のために石狩川河口に合流する河道を作ったので、現在流路も14.5kmと短くなり、昔の川筋は「旧知津狩川」と呼ばれています。

(三上正一)


参考文献


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