石狩ファイル0033-01(2005年2月5日)
石狩では明治末期より乳牛を飼う家が少しづつ増えていました。もともとは、地力だけに頼る略奪農業で消耗した地力を補うための、きゅう肥*を得るのが目的でしたが、併せて現金収入も得られる魅力もありました。
その後、大正2(1913)年の大冷害の反省からさらに酪農振興の気運が高まり、石狩でも有畜農家が急激に増えていきました。大正中期には、樽川(たるかわ)、花畔(ばんなぐろ)、生振(おやふる)、八幡(はちまん)などに各乳業会社が多数の集乳所を開設したため、当時の農家の8割くらいが乳牛飼育と牛乳出荷を始めていました。大型酪農家も出現し、20頭前後飼育できる牛舎及びサイロの建設が各地で始まり、町内で1500頭に近い乳牛が飼育されて、石狩の農家経済に大きく寄与したのです。また、大正6(1917)年に町村敬貴氏により南線に開設された、町村牧場(昭和3年に江別に移転)や大正7(1918)年に樽川に開設された、極東練乳(株)の極東農場は、地区内酪農発展に多大な貢献をしました。特に、極東農場は、各地より優秀種牡牛や牝牛を選抜購入し、生産した種畜牛を道内や本州、遠くは朝鮮、樺太、中国まで送り出すほど我が国の酪農界に影響を与えたのです。
しかし、このように発展した石狩の酪農も、戦後の造田化の中、南線、樽川以外の地域では、次第に下火になっていきました。南線(みなみせん)、樽川地区だけは、水田、酪農混合経営が成功し、昭和36(1961)年には戸数100戸、乳牛480頭と、発展し続けました。
ところが、昭和39(1964)年から始まった南線地区宅地造成、昭和46(1971)年の花畔南地区住宅公団宅地造成につづいて石狩湾新港開発地域内の用地買収により酪農家は減り、かっては北海道酪農界の中心であった石狩の樽川地区も、昭和50(1975)年には酪農家数がわずか20戸余となりました。
(石井滋朗)
* きゅう肥:家畜の糞尿と敷きわらとがまじったものを発酵させた肥料。
昭和20年 | 昭和36年 | 昭和40年 | 昭和50年 | 昭和60年 | 平成3年 | |
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酪農家数(戸) | 70 | 100 | 81 | 21 | 20 | 25 |
乳牛数(頭) | 318 | 480 | 600 | 480 | 798 | 865 |
参考文献