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石狩ファイル0044-01(2005年9月25日)

荒井金助

あらいきんすけ


荒井金助
(「先人たちの碑」)
文化5(1808)年〜慶応2(1866)年。

安政2(1855)年、ロシアの脅威を懸念した幕府は、松前藩が治めていた蝦夷地を再び幕府直轄領としました。石狩の行政区域は、積丹から厚田までと、奥地は旭川付近までとなり、石狩には石狩役所が設置され、西蝦夷地の行政の中心となり、石狩場所改革が進められました。荒井金助は函館奉行支配調役並を命ぜられ、安政4(1857)年7月に石狩役所に着任、7年間在任して石狩場所改革を実行しました。

安政5(1858)年、石狩役所は村山伝次郎の場所請負制度を廃止し、函館奉行所の直接経営(直捌、じかさばき)としました。また、石狩に学館(教導館)や剣、弓、鉄砲の道場を建て、弟子の教育を積極的に進めました。受持部内を巡視の際、空知地方に石炭を発見し、標木を建てました。また、厚田村望来(もうらい)の海浜に石油の湧出を見、山中を調査して油田を発見しました。金助は寺社の創設にも熱心で、石狩八幡神社の創立にも関わっています。

安政6(1859)年、石狩役所を石狩川左岸から右岸のワッカオイに移し、役所を新築しました。このことにより石狩川両岸に町ができました。また、樺太西岸クシュナインに石狩出張所を開設しました。万延元(1860)年に自費で農民十余戸を募って篠路に入殖させ、地を拓き部落を作りました。また、望来に農民十余戸を募集して管理しています。

以上のような改革を実行した金助は、「石狩の地、他日必ず一都府となり、天皇の臨幸を仰ぐべし」という言葉を残しています。

文久3(1863)年9月、金助は函館の沖口係となって石狩から転じ、元治元(1864)年室蘭詰、慶応2(1866)年11月、五稜郭で濠に落ちて死亡しています。

なお、弁天歴史公園(石狩市弁天町)に設置されている野外彫刻「先人たちの碑」には、荒井金助が描かれています。

(三島照子)


参考文献


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