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石狩ファイル0059-01(2006年3月31日)

石狩の水害と治水

いしかりのすいがいとちすい


生振・対雁間の捷水路
生振・対雁間の捷水路
石狩では、石狩川による洪水の被害をたびたび受けてきました。古くは、弘化2(1845)年、氾濫で決壊した石狩川堤防の修築のため、石狩場所請負人の村山伝次郎が越後(新潟県)から10名の技術者を雇い入れた事が記録にあり、これが石狩川治水の始まりといわれています。明治31(1898)年に浸水家屋159戸、被害田畑430町歩という大水害がありました。この水害が契機となり「北海道治水調査会」が設けられ、明治43(1910)年には、石狩川治水事務所が創設(初代所長:岡崎文吉)されて、本格的な治水事業がスタートしました。

しかし、国の財政難から、最初は石狩川下流の護岸工事を細々と施工するにすぎませんでしたが、大正7(1918)年になり、第一次世界大戦後の好景気で財政にもゆとりができ、生振・対雁間捷水路(おやふる・ついしかりかんしょうすいろ)の工事が着工されました。これは、川の流れを円滑にするため、5ヶ所の捷水路(生振、当別、篠路第1、第2、対雁)を掘削して、湾曲蛇行した部分をカットするものでした。昭和6(1931)年、生振捷水路が完成、同8年には最後の対雁捷水路も完成して、33.4kmだった旧河道の総延長が11.3kmに短縮されました。この捷水路の完成で生振地区の被害は大きく軽減されましたが、石狩全域の治水事業はまだ未完成でした。

その後も、明治以来の大水害と云われた昭和7(1932)年や昭和36(1961)年、浸水した家屋685戸、冠水田畑が1,536町歩という大被害を出した昭和56(1981)年など、たびたび水害は発生しました(この56年時には、完成直前の石狩放水路が緊急通水されて効果をあげました)。

しかし、昭和57(1982)年以降は、治水事業の効果もあり、大きな洪水は発生していません。

石狩の主な洪水の発生年は次の通りです。

(石井滋朗)


参考文献


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