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石狩ファイル0071-01(2006年9月30日)

厚田の著名人(1)戸田城聖

あつたのちょめいじん1とだじょうせい


かつて、ニシンの千石場所として栄えた厚田からは、第43代横綱・吉葉山潤之輔(よしばやまじゅんのすけ)、多くの幕末維新の歴史小説などを著した文豪・子母澤寛(しもざわかん)、創価学会第2代会長・戸田城聖、そして「漁の神様」と呼ばれた大実業家・佐藤松太郎などの著名人が輩出しています。

戸田城聖(1900〜1958)

創価学会第2代会長。本名は戸田甚一。明治33(1900)年、石川県江沼郡塩谷村(現在の加賀市)で戸田甚七の7男として生まれます。祖父は千石船の船頭をしていたが、北前船が急速に衰退し仕事も少なくなったため、甚一が2歳のときニシン漁がさかんだった厚田村に移住します。そして甚一は14歳までの少年期をここ厚田で過ごします。厚田尋常高等小学校を主席で卒業、札幌市内で仕事につきますが、その後教員の資格を得て、4年間ほど夕張で小学校の代用教員をします。

19歳で上京、教育家・牧口常三郎と出会います。このことが大きな転機となり、人生の師として牧口常三郎に従い仏法の実践に入り、創価教育確立に力をそそぎます。その結果、昭和5(1930)年、創価教育学会の発展に貢献し、初代の理事長に就任。太平洋戦争中は、戦争反対勢力として弾圧を受け投獄されます。同じく治安維持法違反により獄中生活を送っていた牧口常三郎は、昭和19年11月留置所で73歳の生涯を終えました。

終戦とともに社会復帰した戸田はその名を城聖と改めます。城聖は、初代会長の遺志を継ぎ、昭和26(1951)年、創価学会第2代会長に就任。その卓越した指導力と人間的な魅力で学会組織を大きく発展させました。しかし自分の体を顧みず、仏法流布のために走り続けた身体は病魔にむしばまれ、昭和33(1958)年、58歳の短い生涯を終えます。

厚田には戸田城聖の出身地を記念して「戸田記念墓地公園」があり、桜の季節には多くの人々が訪れます。また、厚田公園には旧家屋「戸田生家」が記念館として原型のまま復元されており、甚一の少年時代の生活を偲ぶことができます。

(木戸口道彰)


参考文献


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