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石狩ファイル0073-01(2006年9月30日)

厚田の著名人(3)子母澤寛

あつたのちょめいじん3しもざわかん


子母沢寛(1892〜1968)

小説家。本名は梅谷松太郎。厚田に生まれた松太郎は、地元の小学校を出て札幌の北海中学校に学びます。在学中に文学活動を始め、明治44(1911)年、明治大学に進学。卒業後は横須賀や札幌で地方紙の新聞記者などを勤めた後、再び上京して読売新聞社に入ります。記者を続ける一方で維新関係の史料に関心をいだき、昭和3(1928)年、処女出版の「新選組始末記」で文壇にデビュー。続いて「笹川の繁蔵」「国定忠治」「弥太郎笠」などによって、股旅ものの大衆作家としてその地位を不動にします。子母澤寛の名は、当時住んでいた新井宿子母澤の地名と、いつか菊池寛のような大作家になりたいという憧れから命名されたといわれています。その願いを叶えたのは、「勝海舟」「父子鷹」などの幕末・維新ものにより、昭和37(1962)年、70歳にして菊池寛賞の受賞でした。

「箱館戦争の敗残者、江戸の侍が、蝦夷石狩の厚田の村に、ひっそりと暮らしていた」の書き出しから始まる「厚田日記」は、江戸の御家人だった主人公、実子として育ててくれた祖父・松谷十次郎と重ね合わせて物語は展開します。箱館戦争に敗れ、時代に背を向けて厚田の寒村でひっそりと暮らしながらも、村人たちに必死で溶け込もうとするけなげな生き様が描かれており、故郷・厚田と祖父に対する深い思いが伝わる作品です。

子母澤は、作家として成功を収めてからは、一度も帰郷することはありませんでした。しかし厚田三部作といわれる「蝦夷物語」「厚田日記」「南へ向いた丘」など、北海道を舞台にした小説を書き続けたその心は、ひたすら故郷厚田へ向けられており、その郷愁こそが子母澤文学の原点でした。

「厚田日記」の書き出しを刻んだ「子母澤寛文学碑」は、いま石狩湾を一望する海辺の丘に建っています。懐かしい厚田と祖父に思いを馳せて、昭和43(1968)年、子母澤寛こと梅谷松太郎は、76歳の生涯を閉じました。彼の偉業を偲び、死後「下母澤寛全集」が刊行され、また7回忌にあたる昭和49年には、「勝海舟」が大河ドラマとして放送されました。北海道出身の画家、三岸好太郎は彼の異父弟です。

(木戸口道彰)


参考文献


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